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三国志の時代とは、陳寿「三国志」に記される時代を指す。
具体的にはまず、後漢時代の後期から、三国(魏・呉・蜀)の成立まで。更に、晋が魏を引き継ぎ、三国を統一するまでを含む。
他に「三国志演義」という書物もあり、著者は羅貫中。こちらは小説。
しかし、後漢の後期、宦官(かんがん)が台頭する。(宦官とは、皇帝の世話係。)
宦官は地方豪族と結託し、農民から搾取する。184年、張角という人物が農民を率い、「黄巾の乱」を起こす。(張角は、道教団体「太平道」の指導者。)これは、一通り鎮圧されたが、残党が各地に根を張った。
189年、董卓(辺境出身の武将)が朝廷を制圧し、横暴を振るう。袁紹(名門貴族)らがこれに対抗した。
次第に、群雄割拠の時代となる。その中で、曹操、孫権、劉備が台頭する。孫権は三代目。まず孫堅が軍閥を築き、子の孫策が地盤を確立し、その弟の孫権が発展させた。
曹操は、華北(中国の北半分)を全て制圧。(本拠地は魏郡。)政治にも長け、従来の儒教社会を改革し、法治を行き渡らせた。
曹操は、最大の勢力を有していたが、自ら皇帝にはならなかった。曹操の死後、子の曹丕(そうひ)が、魏王朝(漢王朝の後継)を開く。(220年。)曹丕は、陳羣(ちんぐん)ら儒家官僚を重用した。
一方、孫権は華南の東を支配し、呉王朝を設立。(229年。)また、劉備は華南の西を支配し、蜀王朝を設立。(221年。)劉備は、漢の正統な後継を称した。
一般に、魏王朝成立時が、三国時代の始まりとされる。(呉・蜀は、まだ正式な独立国ではなかったが。)
魏では、次第に、司馬氏(儒家の名族)が実権を握る。司馬懿、子の司馬師、その弟の司馬昭が権勢を振るった。
263年、司馬昭は蜀を併呑し、魏と呉の二国となる。(以後、事実上は二国時代だが、時代区分上は「三国時代」に含まれる。)
265年、晋という王朝が誕生する。魏王朝になり代わった形。初代皇帝は司馬炎という人物(司馬昭の子)。
280年、司馬炎は呉を併呑し、三国統一が成った。ここまでが、三国志の時代。
しかし、王朝成立以前も、この三つの呼称は使われていた。
以下で、用法についてまとめる。
まず、「魏」について。
曹操は華北を制してのち、魏国(漢王朝の藩国)を建て、国公となる。(後に国王に昇格。)所領地は、魏郡を含む十郡。
曹操はあくまで、漢帝国の一部をなす「魏国」の王だった。しかし、曹操の勢力の代名詞として「魏」が使われた。
次に「呉」について。
孫権は長らく、呉郡(の呉県)を本拠地としていた。この呉郡は、江東(長江の東の地域)の要地。
結果、(王朝成立前から、)孫権の勢力の代名詞として「呉」が使われた。
最後に「蜀」について。
劉備は、益州という州を制圧し、これをメインの領地とした。当時、益州の中心部は、「蜀」という土地名で呼ばれていた。(また、益州の首都は、蜀郡の成都県。)
結果、(王朝成立前から、)劉備の勢力の代名詞として「蜀」が使われた。
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概略
三国志の時代とは、いつ?
晋の時代、陳寿という人物が、歴史書「三国志」を著述。これは、正史(公式の歴史書)に類する。三国志の時代とは、陳寿「三国志」に記される時代を指す。
具体的にはまず、後漢時代の後期から、三国(魏・呉・蜀)の成立まで。更に、晋が魏を引き継ぎ、三国を統一するまでを含む。
他に「三国志演義」という書物もあり、著者は羅貫中。こちらは小説。
大まかな流れ
後漢王朝は、本来、儒家官僚が主導。しかし、後漢の後期、宦官(かんがん)が台頭する。(宦官とは、皇帝の世話係。)
宦官は地方豪族と結託し、農民から搾取する。184年、張角という人物が農民を率い、「黄巾の乱」を起こす。(張角は、道教団体「太平道」の指導者。)これは、一通り鎮圧されたが、残党が各地に根を張った。
189年、董卓(辺境出身の武将)が朝廷を制圧し、横暴を振るう。袁紹(名門貴族)らがこれに対抗した。
次第に、群雄割拠の時代となる。その中で、曹操、孫権、劉備が台頭する。孫権は三代目。まず孫堅が軍閥を築き、子の孫策が地盤を確立し、その弟の孫権が発展させた。
曹操は、華北(中国の北半分)を全て制圧。(本拠地は魏郡。)政治にも長け、従来の儒教社会を改革し、法治を行き渡らせた。
曹操は、最大の勢力を有していたが、自ら皇帝にはならなかった。曹操の死後、子の曹丕(そうひ)が、魏王朝(漢王朝の後継)を開く。(220年。)曹丕は、陳羣(ちんぐん)ら儒家官僚を重用した。
一方、孫権は華南の東を支配し、呉王朝を設立。(229年。)また、劉備は華南の西を支配し、蜀王朝を設立。(221年。)劉備は、漢の正統な後継を称した。
一般に、魏王朝成立時が、三国時代の始まりとされる。(呉・蜀は、まだ正式な独立国ではなかったが。)
魏では、次第に、司馬氏(儒家の名族)が実権を握る。司馬懿、子の司馬師、その弟の司馬昭が権勢を振るった。
263年、司馬昭は蜀を併呑し、魏と呉の二国となる。(以後、事実上は二国時代だが、時代区分上は「三国時代」に含まれる。)
265年、晋という王朝が誕生する。魏王朝になり代わった形。初代皇帝は司馬炎という人物(司馬昭の子)。
280年、司馬炎は呉を併呑し、三国統一が成った。ここまでが、三国志の時代。
呼称について
魏、呉、蜀は王朝の名称。しかし、王朝成立以前も、この三つの呼称は使われていた。
以下で、用法についてまとめる。
まず、「魏」について。
曹操は華北を制してのち、魏国(漢王朝の藩国)を建て、国公となる。(後に国王に昇格。)所領地は、魏郡を含む十郡。
曹操はあくまで、漢帝国の一部をなす「魏国」の王だった。しかし、曹操の勢力の代名詞として「魏」が使われた。
次に「呉」について。
孫権は長らく、呉郡(の呉県)を本拠地としていた。この呉郡は、江東(長江の東の地域)の要地。
結果、(王朝成立前から、)孫権の勢力の代名詞として「呉」が使われた。
最後に「蜀」について。
劉備は、益州という州を制圧し、これをメインの領地とした。当時、益州の中心部は、「蜀」という土地名で呼ばれていた。(また、益州の首都は、蜀郡の成都県。)
結果、(王朝成立前から、)劉備の勢力の代名詞として「蜀」が使われた。