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180年以後の変遷
・190年、劉表が州の首都を襄陽県に移す。
・196年、江夏郡の首都が沙羨県に移転。(黄祖の時代。)
・南陽郡の南部が分離され、「章陵郡」が作られる。(時期は不明。)この章陵郡は、曹丕の時代、「義陽郡」と改称。後に廃止。

・208年、江夏郡の首都が石陽県に移転。(曹操の時代。)この石陽は、孫権が少し前に設置した県。場所は郡の西端で、漢水の西岸・長江の北。
・208年、南郡の北部が分離され、「襄陽郡」が作られる。同年、南郡の西部が分離され、「臨江郡」が作られる。同年、南陽郡の西部が分離され、「南郷郡」が作られる。(いずれも曹操が実行。)
・208年、南郡の中部が分離され、「臨江郡」が作られる。(曹操が実行。)210年、この郡は「宜都郡」と改称。(劉備が実行。)222年には、「西陵郡」と改称。(孫権が実行。)やがて、「宜都郡」という名称に戻る。(時期不詳。)これらの間、郡の所領地は、多少変動あり。

・210年、長沙郡の北東部が分離され、「漢昌郡」が作られる。(孫権が実行。)やがて廃止。
・215年、江夏郡の南東部が分離され、「西陵郡」が作られる。(孫権が実行。)やがて廃止。なお、この西陵郡は、元宜都郡の西陵郡とは別物。
・215年、益州漢中郡の東部が分離され、三つの郡が新設。いずれも、荊州に編入される。(曹操の時代。)その三郡とは、西から「西城郡」、「上庸郡」、「房陵郡」。


・219年、宜都郡の西部が分離され、「固陵郡」が作られる。(孫権の時代。)
・220年、西城郡東部、上庸郡、房陵郡が統合され、「新城郡」を作る。同時に、西城郡が「魏興郡」と改称。(以上、曹丕の時代。)この地域は曹叡の時代、何度かの再編を経て、西から「魏興郡」、「上庸郡」、「新城郡」という形に落ち着く。
・221年、孫権が鄂県を「武昌県」と改称する。また、揚州の廬江郡・豫章郡の一部を分離し、江夏郡に編入する。更に、江夏郡を「武昌郡」と改称し、武昌県を首都とする。
・武昌郡が元の名称(江夏郡)に戻る。(時期不詳。)

・225年、交州蒼梧郡の北部が分離され、荊州に編入。「臨賀郡」と命名される。(孫権の時代。)
・257年、長沙郡が分割され、南東部が「湘東郡」、西部が「衡陽郡」となる。(孫亮の時代。)
・260年、固陵郡が「建平郡」と改称。(孫皓の時代。)





三国時代の荊州(260年頃)
 北部は魏領。中部・南部は呉領。(太線が境界線。)

荊州

扶風郡・京兆郡→雍州 /弘農郡・河南尹→司州 /潁川郡・汝南郡・弋陽郡→豫州 /蘄春郡・豫章郡・廬陵郡→揚州 /鬱林郡・蒼梧郡・南海郡→交州 /漢中郡・巴西郡・巴東郡・涪陵郡・巴郡・牂牁郡→益州

①上庸郡 ②新城郡 ③襄陽郡 ④江夏郡(魏) ⑤宜都郡 ⑥江夏郡(呉)


<読み方>
 京兆:けいちょう /潁川:えいせん /弋陽:よくよう /蘄春:きしゅん /廬陵:ろりょう /蒼梧:そうご /涪陵:ふりょう /牂牁:しょうか




参考資料:「中国歴史地図集3」他


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