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劉璋は巴郡を三分割し、対漢中の軍備を整える。北東部は「固陵郡」、南部は「永寧郡」、北西部が新たな巴郡。
また、配下の龐義(ほうぎ)に指令し、何度も張魯を討伐させる。しかし、張魯は堅守した。
やがて、張魯は漢中郡を「漢寧郡」と改称し、太守を名乗る。(恐らく200年頃。)朝廷もそれを承認。
劉璋はまたも、巴郡一帯を再編。北西部は「巴西郡」、北東部は「巴東郡」となる。南東部は「巴東属国」、南西部が新たな巴郡。
巴西郡は広大で、ここに軍備を集中させる算段。劉璋は龐義を起用し、太守に任命した。
この龐義は、劉璋の恩人でもあり、いつも劉璋に重用された。その昔、劉璋の子を助けたらしい。
龐義は巴西に赴任後、次第に増長し、勝手な振舞いをする。劉璋は恩義には厚かったが、人を統御するのは不得手。巴西は半ば、劉璋の手を離れ、漢中奪還も難しくなった。
また、流民をよく受け入れ、人口は次第に増えた。
宿舎には、「義米」や「義肉」を置き、相互扶助の体制を作る。自ずと、争いのない共同体が形成され、その中で各々が精進。(即ち、老子が理想とした社会。)民は概ね、充足していたと記される。
もっとも、張魯には、群雄という一面もある。軍備には余念がなく、劉璋に付け入らせない。
張魯は元々、漢中を武力で奪い取った。純粋な求道者、宗教指導者という訳ではない。道家としての理想を持ちつつ、野心家のリアリスト(現実主義者)でもあった。
やがて、趙韙(劉璋の重臣)が土着豪族を率い、反乱を起こす。(王商(趙韙と並ぶ重臣)は、これに加わらず。)劉璋と東州派閥は、共々成都に籠城する。東州派閥の軍事力により、反乱軍は敗北し、趙韙は部下に殺害された(201年)。
情勢がこのように混乱したのは、劉璋の力不足のためとされる。しかし元々は、劉焉の強引なやり方が原因だろう。
また、益州は隣の荊州に比べ、政治学が発達していない。政治体制がしっかりしていないと、外来者が勝手をやりやすい。(郤倹、そして劉焉・東州派閥。)
益州は元来、自然の多い僻地。この地で発達した学問は、天文、占いなど浮世離れした物。(「蜀学」という名称で呼ばれる。)一応は、儒学の一派なのだが、孔子の儒学とは基本異なる。
荊州の劉表は、儒家名士を中核とし、政治体制を整えた。しかし益州では、その方法は取りにくい。益州の儒者は、中原や荊州の儒者と異なり、あまり政治的な性格ではない。時々に天の意思を告げ、政策の修正を勧めるが、体制の確立には関心が薄い。
また、中原や荊州では、基本的に教養が重視される。益州では、学者を除けば、そういう気風は浸透していない。
劉璋の一族は、元来荊州人。漢の皇族でもあり、儒家の家系。劉璋は基本的に、政治を重んじ、徳治を志していたと思われる。
しかし、益州では、東州派閥(利己的な集団)が勢力を持っている。劉璋は、思うように国政を行えなかった。
当時、成都の有力者は、奢侈(しゃし)と奔放を好んでいた。そこで、董和は法治を徹底させ、公平な政治を行った。一般の民は、大いに感謝したという。
一方、有力者たちは、董和を煙たがる。あるとき、劉璋に訴え、董和を巴東属国の都尉に転任させようとする。劉璋はこれに同意したが、数千人の民が役所に押しかけ、董和の残留を請願。劉璋は董和の在任を、二年延長させることとした。
劉璋は本来、民心を重んじるタイプ。デモにも寛容だったのだろう。
董和は後に、益州郡の太守となる。「益州郡」とは、「益州」という州に属する一郡。(少しややこしい。)かなり、南方に位置している。
当時、南方の地域は、漢人・異民族が混在する。董和は異民族との調和を考え、常に誠意をもって治める。漢の価値観を強制せず、異民族の風俗を慮り、その上で筋道は通す。領内はよく治まり、民(漢民・異民族)から敬愛を受けたという。
これは、いわゆる「人治」に類する。即ち、領主がしばしば法を介さず、個人の裁量で治めるという形態。成都のときとは、基本的に形態が異なる。董和は任地の状況に応じ、柔軟に方針を変えた。
一方、許靖という人物が、巴郡、広漢郡の太守を歴任。出身は豫州だが、紆余曲折を経て、益州に流れ着いた。有徳の苦労人で、かつては朝廷で活躍。
また、王商が、蜀郡の太守に任じられる。儒学を重んじ、体制を整備し、農政に尽力。民百姓の生活は、次第に向上する。在任は十年に及び、その死後、許靖が後任となった。
このように、州の各地で、善政は行われていた。これだけ見ると、劉璋の時代は、そこそこに思える。
しかし、東州派閥・土着豪族の相克という問題は、依然未解決のまま。国情は決して、安定はしていなかった。良臣達が地方長官として活躍し、それによって国は保たれていたが、いつまで持つかは分からない。
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1、劉焉到来 2、劉璋の苦闘 3、劉備到来
4、諸葛亮の手腕 5、劉禅の為政
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益州の出来事2 劉璋の苦闘
対張魯
漢中の張魯は、劉焉の時代は従順。しかし、跡を継いだ劉璋を軽視し、次第に思いのまま振舞う。その結果、劉璋は張魯を憎み、敵視する。劉璋は実際は、それほど穏やかな性格ではない。劉璋は巴郡を三分割し、対漢中の軍備を整える。北東部は「固陵郡」、南部は「永寧郡」、北西部が新たな巴郡。
また、配下の龐義(ほうぎ)に指令し、何度も張魯を討伐させる。しかし、張魯は堅守した。
やがて、張魯は漢中郡を「漢寧郡」と改称し、太守を名乗る。(恐らく200年頃。)朝廷もそれを承認。
劉璋はまたも、巴郡一帯を再編。北西部は「巴西郡」、北東部は「巴東郡」となる。南東部は「巴東属国」、南西部が新たな巴郡。
巴西郡は広大で、ここに軍備を集中させる算段。劉璋は龐義を起用し、太守に任命した。
この龐義は、劉璋の恩人でもあり、いつも劉璋に重用された。その昔、劉璋の子を助けたらしい。
龐義は巴西に赴任後、次第に増長し、勝手な振舞いをする。劉璋は恩義には厚かったが、人を統御するのは不得手。巴西は半ば、劉璋の手を離れ、漢中奪還も難しくなった。
張魯の治世
張魯は漢中にあって、独自の国を作る。基本的に、教団組織をもって統治。行政手続きを簡略化し、民はこれを便利と感じる。また、流民をよく受け入れ、人口は次第に増えた。
宿舎には、「義米」や「義肉」を置き、相互扶助の体制を作る。自ずと、争いのない共同体が形成され、その中で各々が精進。(即ち、老子が理想とした社会。)民は概ね、充足していたと記される。
もっとも、張魯には、群雄という一面もある。軍備には余念がなく、劉璋に付け入らせない。
張魯は元々、漢中を武力で奪い取った。純粋な求道者、宗教指導者という訳ではない。道家としての理想を持ちつつ、野心家のリアリスト(現実主義者)でもあった。
東州派閥
劉璋の政治は、寛容を基本とし、法治に力を入れない。その結果、東州派閥が増長し、しばしば土着民を苦しめた。東州派閥とは、劉焉が組織した外来勢力。劉璋は、これを持て余した。やがて、趙韙(劉璋の重臣)が土着豪族を率い、反乱を起こす。(王商(趙韙と並ぶ重臣)は、これに加わらず。)劉璋と東州派閥は、共々成都に籠城する。東州派閥の軍事力により、反乱軍は敗北し、趙韙は部下に殺害された(201年)。
情勢がこのように混乱したのは、劉璋の力不足のためとされる。しかし元々は、劉焉の強引なやり方が原因だろう。
また、益州は隣の荊州に比べ、政治学が発達していない。政治体制がしっかりしていないと、外来者が勝手をやりやすい。(郤倹、そして劉焉・東州派閥。)
益州は元来、自然の多い僻地。この地で発達した学問は、天文、占いなど浮世離れした物。(「蜀学」という名称で呼ばれる。)一応は、儒学の一派なのだが、孔子の儒学とは基本異なる。
荊州の劉表は、儒家名士を中核とし、政治体制を整えた。しかし益州では、その方法は取りにくい。益州の儒者は、中原や荊州の儒者と異なり、あまり政治的な性格ではない。時々に天の意思を告げ、政策の修正を勧めるが、体制の確立には関心が薄い。
また、中原や荊州では、基本的に教養が重視される。益州では、学者を除けば、そういう気風は浸透していない。
劉璋の一族は、元来荊州人。漢の皇族でもあり、儒家の家系。劉璋は基本的に、政治を重んじ、徳治を志していたと思われる。
しかし、益州では、東州派閥(利己的な集団)が勢力を持っている。劉璋は、思うように国政を行えなかった。
地方長官の活躍
益州の士大夫の中で、董和(とうか)は厳格な性格。(出身は荊州。)董和は劉璋に仕え、成都の県令となる。当時、成都の有力者は、奢侈(しゃし)と奔放を好んでいた。そこで、董和は法治を徹底させ、公平な政治を行った。一般の民は、大いに感謝したという。
一方、有力者たちは、董和を煙たがる。あるとき、劉璋に訴え、董和を巴東属国の都尉に転任させようとする。劉璋はこれに同意したが、数千人の民が役所に押しかけ、董和の残留を請願。劉璋は董和の在任を、二年延長させることとした。
劉璋は本来、民心を重んじるタイプ。デモにも寛容だったのだろう。
董和は後に、益州郡の太守となる。「益州郡」とは、「益州」という州に属する一郡。(少しややこしい。)かなり、南方に位置している。
当時、南方の地域は、漢人・異民族が混在する。董和は異民族との調和を考え、常に誠意をもって治める。漢の価値観を強制せず、異民族の風俗を慮り、その上で筋道は通す。領内はよく治まり、民(漢民・異民族)から敬愛を受けたという。
これは、いわゆる「人治」に類する。即ち、領主がしばしば法を介さず、個人の裁量で治めるという形態。成都のときとは、基本的に形態が異なる。董和は任地の状況に応じ、柔軟に方針を変えた。
一方、許靖という人物が、巴郡、広漢郡の太守を歴任。出身は豫州だが、紆余曲折を経て、益州に流れ着いた。有徳の苦労人で、かつては朝廷で活躍。
また、王商が、蜀郡の太守に任じられる。儒学を重んじ、体制を整備し、農政に尽力。民百姓の生活は、次第に向上する。在任は十年に及び、その死後、許靖が後任となった。
このように、州の各地で、善政は行われていた。これだけ見ると、劉璋の時代は、そこそこに思える。
しかし、東州派閥・土着豪族の相克という問題は、依然未解決のまま。国情は決して、安定はしていなかった。良臣達が地方長官として活躍し、それによって国は保たれていたが、いつまで持つかは分からない。
1、劉焉到来 2、劉璋の苦闘 3、劉備到来
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