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ショカツリョウ コウメイ
蜀の宰相。劉備(初代皇帝)を補佐。劉備死後、劉禅(二世皇帝)を補佐。
諸葛亮も、荊州において、学友と共に経書(公式の儒学書)を学ぶ。その際、周りの者とは異なり、記述の細部にこだわらない。本質的な部分のみ、意識して学び取ろうとした。
儒学は、緻密な世界観、倫理観によって成り立つ。それを絶対視すれば、行動は不自由にならざるを得ない。諸葛亮は後年、儒学を手本としながらも、自由に法を作って国を治める。世の多くの儒者より、主体性が強い人物だった。
また、諸葛亮は、元々は徐州の生まれ。幼い頃、父の諸葛珪は死去し、おじの諸葛玄を頼る。
徐州で動乱が起こると、諸葛玄に連れられ、揚州に避難する。ここでも動乱が起こり、共々荊州まで避難。諸葛亮は少年期から、時代の厳しさを実感していた。
荊州では、学問に励みつつ、日々農耕に携わる。これも、人格の形成に一役買っているだろう。書物を読むだけでは、思考が現実から遊離しやすい。その点諸葛亮は、確かな身体性、生活感を持ち、空虚な観念は排された。
まず、益州は中原に比べ、儒教色が強くない。(中原とは、魏の中心部。)土着の豪族と、「東州派閥」が権勢を保持。彼等の間の相克が、情勢を規定している。(東州派閥とは、かつて東から来た集団。)
また、益州には、独特の学問「蜀学」あり。これは天文、占い、形而上学が中心。儒学の一派なのだが、中原の学閥とは異なり、政治活動に積極的ではない。彼等が、益州の学者の主流をなしている。
つまり、益州は中原に比べ、儒教体制が未確立。諸葛亮にとって、自由に才腕を振るいやすい地。諸葛亮は儒者だが、既存の枠組と距離を置き、自由に為政することを望んでいた。
魏では、儒家名士が各地に散らばり、ネットワークを作っている。もし諸葛亮が魏にいたら、自由な政治は行えなかったと思われる。(なお、曹操は法治の確立に成功したが、子の曹丕(そうひ)の時代は儒家勢力が挽回。)
呉もまた、諸葛亮には合わなかった筈。呉では、主君と家臣がファミリーを形成し、情による絆で結ばれている。それは、儒教における「孝」のような、倫理的な関係とはちょっと違う。また、家臣は各々地盤を擁し、主君は盟主のような立場。
そういう態勢が、既に出来上がっている。諸葛亮が呉にいたら、恐らく、思うような政治はできなかっただろう。呉は魏とは逆に、儒から離れ過ぎている。(国主の孫権は、儒学を好んでいたが、(儒教的倫理より)家臣との絆を最重視。)
当時の劉備には、名士層への人脈、及び政治的異才が不足していた。それらを有している人材がいれば、機会を逃さず手に入れる必要があった。
勿論、この時点では、諸葛亮が後者に該当する確信はなかっただろう。配下に迎え、交流を深めるにつれ、徐々に非凡さを認識していった。
また、劉備はかつて鄭玄(高名な儒学者)と交流があり、しばしばその教えを受けたという。
鄭玄は清貧の生活の中、儒学を主体的に研究し、既存の体系を再構築した人物。常に時代を見据え、救世を考えていた。
諸葛亮は、この鄭玄と共通部分がある。劉備にとって、諸葛亮は、政治、学問の新しい師でもあった。(なお、諸葛亮は鄭玄に比べ、儒学に精通はしていない。その分、現実主義。)
劉備が諸葛亮に期待したのは、官僚的能力、名士性、そして政治的導き。諸葛亮は劉備に会ったとき、まず大筋の戦略を話し、進むべき道を示す。いわゆる「天下三分の計」。(天下を三つに分けたのち、曹操を打倒し、漢を復興させる。)劉備はその計画を聞き、諸葛亮への関心を強めた。
天下三分の発想自体は、諸葛亮に限らず、思い至る者はいたと思われる。しかし、諸葛亮には、より明確なビジョンがあったのだろう。(例えば、益州を奪ったあと、統治が上手くいくかどうかなど。)
しばらくのち、孫権への使者を任され、連合を成立させる。また、赤壁の戦いののち、荊州の諸郡の統治を担当。財政を充実させた。
諸葛亮は、「寛容な政治は逆効果」と考えた。そういう政治は結局、豪族や有力者をのさばらせ、一般の民が苦しむことになる。(実際、後漢王朝の政治はそれで破綻。劉璋の益州統治も、同様であった。)
あるとき、法正(諸葛亮の同僚)が、法が厳格すぎると主張。諸葛亮は、劉璋の失政を述べたあと、己の政治方針を語る。「まず法(刑法)をもって悪を威嚇し、人々に(公平に)恩愛を与える。一方で、爵位をもって身分を明らかにし、(上の者に)栄誉を自覚させる。恩愛と栄誉によって、人々は政治の大切さを知り、自然と節度を守るようになる。」
諸葛亮は、法を厳格にする一方、常に人心が念頭にあった。
益州では長年、土着の豪族と、東州派閥が利を巡って争ってきた。(後者が優勢。)彼等が自ら慎むことはあり得ず、その術も知らないだろう。また、益州の知識人は観念的な話を好み、学者的な人物は多かったが、政治面ではあまり当てにできない。従って、しっかりした為政者の存在が、何より必要とされていた。
実際、諸葛亮のやり方により、益州はよく治まったらしい。その法は厳しかったため、当初は不満が出たが、結局人心を得ている。諸葛亮の定めた法は、何より公平であり、それは恐らく、益州の人々が最も求めていたものだった。
また、陳寿の諸葛亮評の中に、「悪人でも改心すれば許した」という文がある。諸葛亮は法家というより儒家であり、法の目的もあくまで教化にある。魏の曹操も法を重視し、その点で諸葛亮と共通するが、教化という概念はない。政治理念が、基本的に異なる。
また、南中(益州南部)は産出物が豊富。蜀王朝はこれに目を付け、積極的に取り立てようとする。
やがて、南中の異民族が反乱。諸葛亮は南征し、一通り平定する。
その後、諸葛亮は、徴収の体制を改めて整備。無節操な搾取は避けつつ、財政を存分に充実させる。更に、現地人たちの自治を重んじ、支配の意を強く示さず、不信感を解いた。(勿論、異民族たちは、以後も一定の不満は持ち続けたと思われる。)
まず、諸葛亮は、ずば抜けた知性の持ち主。時代を啓蒙したい欲求を、強く持っていた筈。また、己が優れた政治感覚を有することも、早くから自覚していたに違いない。(劉備に仕える前から、自身を古の宰相に例えている。)
諸葛亮はどこかの地に、理想の国家を作りたかった。そして、益州は一番やりやすい地。だから、曹操にも孫権にも仕えず、劉備に全てを賭け、益州奪取に尽力した。
諸葛亮のもう一つの目標、最も大きな目標は、漢王朝の復興。「天下三分の計」の最終段階は、呉と協力して魏を倒し、漢を補佐すること。(そして、自ずと全土が安定。)呉を倒すということは、基本的に計画にない。諸葛亮は、「他勢力を全て制し、勝利者になる」といったことは目指しておらず、ただ天下を安んじることに関心があった。
諸葛亮は恐らく、漢の復興を、天下安定の近道と考えていた。もし曹操が欠点のない為政者なら、曹操が漢を終わらせたとしても、諸葛亮はそれに反発したとは限らない。むしろ、時代の趨勢と捉え、支持していたかも知れない。
しかし、曹操はかつて、徐州で殺戮を行ったことがある。(徐州は諸葛亮の故郷。揚州への避難は、恐らくこれが原因。)曹操は法至上主義を掲げていたが、時々感情的、独善的になることがあった。当時、反曹操の気運は、確実に世の中に存在した。また、曹操は元々、儒家名士らとの間に相克あり。
例え、曹操が天下を平定しても、もう一波乱起こる可能性がある。諸葛亮は、恐らくそう考え、「天下三分」と対曹操の構想を立てた。
諸葛亮は後年、魏への北伐に力を注ぐ。かつて立てた計画は、益州、荊州両面から侵攻するというもの。荊州は既に失っているが、あえて断行した。
北伐の目的に関しては、諸説が存在する。本気で魏を倒すつもりだったのか、防衛ラインを築くのが目的だったのか。また、漢の復興を掲げている以上、魏を征伐せざるを得なかったのか。恐らく、それらの複合だろう。
現代人の感覚からすれば、余計な戦禍にも思えるが。その時代の気運、流れというものもある。また、天下を三つに分けてしまった以上、統一されるまで動乱は終わらない。魏との対決は、いずれ避けられない。諸葛亮には、恐らく、自分の代で動乱を終わらせたい思いがあった。(北伐のモチベーションの一つは、責任感だったと思われる。)
しかし、魏はそもそもが大国。大国に戦争を仕掛けるには、当然、敵がこちらに大兵力を割けない時期でなければならない。(即ち、他方面に多くの兵を割いているか。もしくは、政情が不安定で、大きな軍事行動を起こす余裕がないか。)そして、こちらの作戦が終了するまで、その情勢が保たれている必要がある。
従って、絶妙のタイミングで行動を起こさなければならず、そのためには膨大な情報を整理し、念入りに検討する必要があるだろう。戦略計画を立てるのは、それだけ難しい筈。
諸葛亮は度々北伐を仕掛け、成功はせず。しかし、自軍を瓦解させたり、自国を崩壊させることもなかった。また、敵の主要な都市は落とせなかったが、いくつか敵領を切り取ってもいる。やはり、並の力量ではないだろう。兵站の管理だけでも、大変な作業だったと思われる。
最後の北伐の際は、屯田(軍屯)も行っている。(軍屯とは駐屯地において、兵が平時に耕作。)当然、高い計画力が必要とされる。
なお、諸葛亮は局地的に何度か勝利し、負けたことはない。しかし、総じて戦績は多くない。本来、行軍の計画を立てることに長け、戦術の指揮はトップレベルではなかった。事前に戦術作戦を練るのは得意でも、状況に応じて融通を利かせるタイプではない。(「三国志演義」では、予め念入りに作戦を立てると、必ずその通りに事が運ぶ。これは、創作の世界だからあり得ること。)
司馬懿は諸葛亮の陣の跡を見て、天下の奇才と称賛している。諸葛亮は、兵法に対する造詣は深かっただろう。しかし、陳寿は「応変の将略には長ぜず」と評する。
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雑学・逸話
蜀1(劉備の本質、劉備と学問、本拠地まとめ、参謀たち、諸葛亮の人物眼、龐統の政務能力)
蜀2(名将姜維、馬良と馬謖、個性派たち、黄皓の台頭、諸葛亮と族縁、諸葛亮の子)
蜀3(南中政策、三人の良臣、南中の反乱、孟獲の実像、異民族の不満、越巂郡)
蜀4(劉備のモチベーション、袁紹と劉備、劉備と人徳、劉備と宴、費禕と揚儀、徐庶の伝記)
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ショカツリョウ コウメイ
諸葛亮 孔明
蜀の宰相。劉備(初代皇帝)を補佐。劉備死後、劉禅(二世皇帝)を補佐。
諸葛亮と儒教
諸葛亮は、官僚の家系の出。当時の官僚は、儒学の素養が必須だった。諸葛亮も、荊州において、学友と共に経書(公式の儒学書)を学ぶ。その際、周りの者とは異なり、記述の細部にこだわらない。本質的な部分のみ、意識して学び取ろうとした。
儒学は、緻密な世界観、倫理観によって成り立つ。それを絶対視すれば、行動は不自由にならざるを得ない。諸葛亮は後年、儒学を手本としながらも、自由に法を作って国を治める。世の多くの儒者より、主体性が強い人物だった。
また、諸葛亮は、元々は徐州の生まれ。幼い頃、父の諸葛珪は死去し、おじの諸葛玄を頼る。
徐州で動乱が起こると、諸葛玄に連れられ、揚州に避難する。ここでも動乱が起こり、共々荊州まで避難。諸葛亮は少年期から、時代の厳しさを実感していた。
荊州では、学問に励みつつ、日々農耕に携わる。これも、人格の形成に一役買っているだろう。書物を読むだけでは、思考が現実から遊離しやすい。その点諸葛亮は、確かな身体性、生活感を持ち、空虚な観念は排された。
諸葛亮と儒教2
諸葛亮は魏の曹操、呉の孫権には仕えなかった。あえて劉備を選び、益州という地を取らせた。(劉備はここに「蜀」を建国。)これには当然、理由が存在する。まず、益州は中原に比べ、儒教色が強くない。(中原とは、魏の中心部。)土着の豪族と、「東州派閥」が権勢を保持。彼等の間の相克が、情勢を規定している。(東州派閥とは、かつて東から来た集団。)
また、益州には、独特の学問「蜀学」あり。これは天文、占い、形而上学が中心。儒学の一派なのだが、中原の学閥とは異なり、政治活動に積極的ではない。彼等が、益州の学者の主流をなしている。
つまり、益州は中原に比べ、儒教体制が未確立。諸葛亮にとって、自由に才腕を振るいやすい地。諸葛亮は儒者だが、既存の枠組と距離を置き、自由に為政することを望んでいた。
魏では、儒家名士が各地に散らばり、ネットワークを作っている。もし諸葛亮が魏にいたら、自由な政治は行えなかったと思われる。(なお、曹操は法治の確立に成功したが、子の曹丕(そうひ)の時代は儒家勢力が挽回。)
呉もまた、諸葛亮には合わなかった筈。呉では、主君と家臣がファミリーを形成し、情による絆で結ばれている。それは、儒教における「孝」のような、倫理的な関係とはちょっと違う。また、家臣は各々地盤を擁し、主君は盟主のような立場。
そういう態勢が、既に出来上がっている。諸葛亮が呉にいたら、恐らく、思うような政治はできなかっただろう。呉は魏とは逆に、儒から離れ過ぎている。(国主の孫権は、儒学を好んでいたが、(儒教的倫理より)家臣との絆を最重視。)
劉備と諸葛亮
劉備にとって、諸葛亮はどんな存在だったのか。劉備は荊州での雌伏時代、自ら諸葛亮の自宅を三度訪ね、配下に招いたといわれる。(有名な「三顧の礼」。)当時の劉備には、名士層への人脈、及び政治的異才が不足していた。それらを有している人材がいれば、機会を逃さず手に入れる必要があった。
勿論、この時点では、諸葛亮が後者に該当する確信はなかっただろう。配下に迎え、交流を深めるにつれ、徐々に非凡さを認識していった。
また、劉備はかつて鄭玄(高名な儒学者)と交流があり、しばしばその教えを受けたという。
鄭玄は清貧の生活の中、儒学を主体的に研究し、既存の体系を再構築した人物。常に時代を見据え、救世を考えていた。
諸葛亮は、この鄭玄と共通部分がある。劉備にとって、諸葛亮は、政治、学問の新しい師でもあった。(なお、諸葛亮は鄭玄に比べ、儒学に精通はしていない。その分、現実主義。)
劉備が諸葛亮に期待したのは、官僚的能力、名士性、そして政治的導き。諸葛亮は劉備に会ったとき、まず大筋の戦略を話し、進むべき道を示す。いわゆる「天下三分の計」。(天下を三つに分けたのち、曹操を打倒し、漢を復興させる。)劉備はその計画を聞き、諸葛亮への関心を強めた。
天下三分の発想自体は、諸葛亮に限らず、思い至る者はいたと思われる。しかし、諸葛亮には、より明確なビジョンがあったのだろう。(例えば、益州を奪ったあと、統治が上手くいくかどうかなど。)
しばらくのち、孫権への使者を任され、連合を成立させる。また、赤壁の戦いののち、荊州の諸郡の統治を担当。財政を充実させた。
益州統治
劉備が益州を支配してのち、諸葛亮は国政全体に関わる。諸葛亮は基本的に儒者であり、人民の教化を第一に考える。諸葛亮のやり方は、法をしっかり整備し、人々に道理を示すというもの。具体的には、「蜀科」と呼ばれる刑法を作成。詳細は伝わっていないが、かなり厳格だったとされる。諸葛亮は、「寛容な政治は逆効果」と考えた。そういう政治は結局、豪族や有力者をのさばらせ、一般の民が苦しむことになる。(実際、後漢王朝の政治はそれで破綻。劉璋の益州統治も、同様であった。)
あるとき、法正(諸葛亮の同僚)が、法が厳格すぎると主張。諸葛亮は、劉璋の失政を述べたあと、己の政治方針を語る。「まず法(刑法)をもって悪を威嚇し、人々に(公平に)恩愛を与える。一方で、爵位をもって身分を明らかにし、(上の者に)栄誉を自覚させる。恩愛と栄誉によって、人々は政治の大切さを知り、自然と節度を守るようになる。」
諸葛亮は、法を厳格にする一方、常に人心が念頭にあった。
益州では長年、土着の豪族と、東州派閥が利を巡って争ってきた。(後者が優勢。)彼等が自ら慎むことはあり得ず、その術も知らないだろう。また、益州の知識人は観念的な話を好み、学者的な人物は多かったが、政治面ではあまり当てにできない。従って、しっかりした為政者の存在が、何より必要とされていた。
実際、諸葛亮のやり方により、益州はよく治まったらしい。その法は厳しかったため、当初は不満が出たが、結局人心を得ている。諸葛亮の定めた法は、何より公平であり、それは恐らく、益州の人々が最も求めていたものだった。
また、陳寿の諸葛亮評の中に、「悪人でも改心すれば許した」という文がある。諸葛亮は法家というより儒家であり、法の目的もあくまで教化にある。魏の曹操も法を重視し、その点で諸葛亮と共通するが、教化という概念はない。政治理念が、基本的に異なる。
益州統治2
諸葛亮は、塩・鉄産業の国有化を推進し、重要な財源とする。(劉備の時代からの継続。王連という人物が、実務で活躍。)また、無駄な官職をなくし、費用を削減した。また、南中(益州南部)は産出物が豊富。蜀王朝はこれに目を付け、積極的に取り立てようとする。
やがて、南中の異民族が反乱。諸葛亮は南征し、一通り平定する。
その後、諸葛亮は、徴収の体制を改めて整備。無節操な搾取は避けつつ、財政を存分に充実させる。更に、現地人たちの自治を重んじ、支配の意を強く示さず、不信感を解いた。(勿論、異民族たちは、以後も一定の不満は持ち続けたと思われる。)
目標や志
諸葛亮は、どのような目標を持っていたのか。改めてまとめてみる。まず、諸葛亮は、ずば抜けた知性の持ち主。時代を啓蒙したい欲求を、強く持っていた筈。また、己が優れた政治感覚を有することも、早くから自覚していたに違いない。(劉備に仕える前から、自身を古の宰相に例えている。)
諸葛亮はどこかの地に、理想の国家を作りたかった。そして、益州は一番やりやすい地。だから、曹操にも孫権にも仕えず、劉備に全てを賭け、益州奪取に尽力した。
諸葛亮のもう一つの目標、最も大きな目標は、漢王朝の復興。「天下三分の計」の最終段階は、呉と協力して魏を倒し、漢を補佐すること。(そして、自ずと全土が安定。)呉を倒すということは、基本的に計画にない。諸葛亮は、「他勢力を全て制し、勝利者になる」といったことは目指しておらず、ただ天下を安んじることに関心があった。
諸葛亮は恐らく、漢の復興を、天下安定の近道と考えていた。もし曹操が欠点のない為政者なら、曹操が漢を終わらせたとしても、諸葛亮はそれに反発したとは限らない。むしろ、時代の趨勢と捉え、支持していたかも知れない。
しかし、曹操はかつて、徐州で殺戮を行ったことがある。(徐州は諸葛亮の故郷。揚州への避難は、恐らくこれが原因。)曹操は法至上主義を掲げていたが、時々感情的、独善的になることがあった。当時、反曹操の気運は、確実に世の中に存在した。また、曹操は元々、儒家名士らとの間に相克あり。
例え、曹操が天下を平定しても、もう一波乱起こる可能性がある。諸葛亮は、恐らくそう考え、「天下三分」と対曹操の構想を立てた。
諸葛亮は後年、魏への北伐に力を注ぐ。かつて立てた計画は、益州、荊州両面から侵攻するというもの。荊州は既に失っているが、あえて断行した。
北伐の目的に関しては、諸説が存在する。本気で魏を倒すつもりだったのか、防衛ラインを築くのが目的だったのか。また、漢の復興を掲げている以上、魏を征伐せざるを得なかったのか。恐らく、それらの複合だろう。
現代人の感覚からすれば、余計な戦禍にも思えるが。その時代の気運、流れというものもある。また、天下を三つに分けてしまった以上、統一されるまで動乱は終わらない。魏との対決は、いずれ避けられない。諸葛亮には、恐らく、自分の代で動乱を終わらせたい思いがあった。(北伐のモチベーションの一つは、責任感だったと思われる。)
北伐
諸葛亮は五度に渡り、魏への北伐を行う。しかし、結局、大きな戦果は挙げられず。(一進一退が続いた。)これをもって、諸葛亮の評価が落とされることがある。しかし、魏はそもそもが大国。大国に戦争を仕掛けるには、当然、敵がこちらに大兵力を割けない時期でなければならない。(即ち、他方面に多くの兵を割いているか。もしくは、政情が不安定で、大きな軍事行動を起こす余裕がないか。)そして、こちらの作戦が終了するまで、その情勢が保たれている必要がある。
従って、絶妙のタイミングで行動を起こさなければならず、そのためには膨大な情報を整理し、念入りに検討する必要があるだろう。戦略計画を立てるのは、それだけ難しい筈。
諸葛亮は度々北伐を仕掛け、成功はせず。しかし、自軍を瓦解させたり、自国を崩壊させることもなかった。また、敵の主要な都市は落とせなかったが、いくつか敵領を切り取ってもいる。やはり、並の力量ではないだろう。兵站の管理だけでも、大変な作業だったと思われる。
最後の北伐の際は、屯田(軍屯)も行っている。(軍屯とは駐屯地において、兵が平時に耕作。)当然、高い計画力が必要とされる。
なお、諸葛亮は局地的に何度か勝利し、負けたことはない。しかし、総じて戦績は多くない。本来、行軍の計画を立てることに長け、戦術の指揮はトップレベルではなかった。事前に戦術作戦を練るのは得意でも、状況に応じて融通を利かせるタイプではない。(「三国志演義」では、予め念入りに作戦を立てると、必ずその通りに事が運ぶ。これは、創作の世界だからあり得ること。)
司馬懿は諸葛亮の陣の跡を見て、天下の奇才と称賛している。諸葛亮は、兵法に対する造詣は深かっただろう。しかし、陳寿は「応変の将略には長ぜず」と評する。
雑学・逸話
蜀1(劉備の本質、劉備と学問、本拠地まとめ、参謀たち、諸葛亮の人物眼、龐統の政務能力)
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