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ショウイン インナン
譙周 允南
  
~益州の非凡な学者~

 蜀の官僚、学者。劉禅の側近となり、長年よく補佐する。また、「仇国論」を記し、姜維の北伐に反対する。後に魏軍が成都(蜀の首都)に進軍すると、劉禅に情勢を説明し、降伏を決意させる。



育ち・仕官
・益州の巴西郡出身。学者の家系。幼くして父を失くし、母や兄と共に暮らす。
・古代に関心を持ち、学問を愛する。家は貧しかったが、暮らしに満足し、書物を朗誦して、喜びの表情を表す。寝食も忘れるほど没頭したという。
・六経(六つの経書)を精細に研究し、書札(文字を書き付けること)にも長ける。天文に大変明るかったが、異変をあまり気にかけない。(不吉の前兆とは考えない。)また、諸子の文章には心が向かわず、その全ては読まず。
・身の丈八尺、素朴な風貌。不意の質問に答える弁才はなかったが、見識をしっかり備え、明敏さを内に秘める。(根っからの学究者、探求者。)


諸葛亮から招聘される。勧学従事に就任。
・初めて諸葛亮に目通りしたとき、左右の者は皆笑う。(士大夫らしくない風貌のため。)その後、役人が笑った者の処置を願い出る。諸葛亮は「私でさえ我慢できなかったから、他の者は仕方なかろう」と言う。
・諸葛亮が死去した際、譙周は家にいたが、直ちに駆け付ける。その後、役人が禁止したが、譙周はその前に辿り着く。
・蒋琬(しょうえん)が益州刺史となる。譙周は典学従事に転任し、州の学者たちをまとめる。




側近として
・劉禅が太子を立てると、譙周は僕(世話役)に任じられる。その後、家令に転任する。


・劉禅は度々、遊覧に出かける。また、宮中の歌手、楽員の数を増やす。譙周はあるとき、劉禅に帝の心得を説く。まず、古のことを例に取りつつ、「民を従えるのは容易ではなく、抜きん出た徳のみがそれを可能にします」と述べる。

・続いて、こう述べる。「現在、漢(ここでは「漢の跡を継いだ蜀」のこと)は危難にあり、天下は三つに分かれています。陛下は大きな孝心を持ち、人を使うことにも長けておられますが、更なる努力が必要です。普通の人なら配慮が届かないところにまで、広く気をお配りになってください。大きな困難に対処するには、幅広い手段を講じる必要があります。」また、こう述べる。「宗廟に仕える身なのですから、ただ幸運に頼るのではなく、人民をよく指導し、天を尊ぶのです。」

・最後に締めくくる。「歓楽に耽ることは控え、楽士の数も減らし、後宮の増築は取り止め、節倹を心がけてください。」


・中散大夫(近従の官)に任じられる。太子の面倒も引き続き見る。




仇国論
・姜維(蜀の将軍)が度々北伐を行い、民は疲弊する。譙周は同僚の陳祗(ちんし)と論争し、それを元に、「仇国論」を著述する。(譙周は外征反対派。)その内容は、架空の国(二つ)、架空の人物(二人)を登場させ、論争の様子を描写したもの。
・架空の国「因余国」は蜀、「肇建(ちょうけん)国」は魏に相当。架空の人物「高建卿」は陳祗、「伏愚子」が譙周に相当。


・以下、「仇国論」の概要。「因余国は弱小で、肇建(ちょうけん)国は強大なり。因余国に高建卿という者がおり、(同国の)伏愚子に質問した。『過去の例において、弱国が強国に勝った場合、どういう手段を用いたのか?』伏愚子は言う。『強国は傲慢になり、小国は善を行う。傲慢なら反乱が起こり、善なら世は治まる。だから周の文王、越王勾践(こうせん)は勝利を収めたのだ。』

・高賢卿はそれを聞き、こう言う。『項羽(強国の君主)は漢(劉邦の国)と盟約を結び、帰国して民を安んじようとした。張良(劉邦の謀臣)は、直ちに追撃すべしと進言し、漢軍は項羽に勝利した。これについては、どう考えるか?』

・伏愚子はこう答える。『例えば、殷、周においては、王や侯は代々尊敬され、君臣の関係は固定し、民は状況に馴染んで変化を求めなかった。根を深く下した木は抜きにくく、基盤がしっかりした物は動かしがたい。こういう時代ならば、高祖(劉邦)もどうにもできなかっただろう。秦末は混乱しており、(項羽も決して盤石ではなく、)手の早い者が多くを分捕り、遅れた者が併呑された。しかし、今は秦末とは違う。(むしろ殷、周の時代に近い。)目先の利益に目を奪われてはならず、また、過去の事例から誤った類推を行ってはならない。』」




見識者として
光禄大夫に昇進する。(帝の疑問に答える官。)九卿に次ぐ地位。
・政事には(直接は)携わらなかったが、学識・品行によって礼遇される。
・重要な問題について諮問されると、必ず、経書に基づき的確に答える。(蜀は儒教政治。)後輩達も、何か疑問が生じると、譙周のところに聞きに行く。


・魏の司馬昭が、蜀攻略を開始する。鍾会、鄧艾らを進軍させ、鄧艾の軍が成都に迫る。蜀の朝廷では、「呉に亡命すべし」「南の異民族の元に亡命すべし」という意見が出る。譙周は、魏に降ることを説く。「呉に入ったら、当然、臣下になる必要があります。一方、魏が呉を併呑するのは可能ですが、呉が魏を併呑するのは無理です。同じく臣下になるなら、魏の臣となる方がましでしょう。また、呉が健在である以上、魏は降伏を受け入れない訳に行きません。」(なお、抗戦は、既に現実的ではなかった。国力は北伐政策で疲弊し、領民に強い忠誠心なし。)

・続いて、南方への亡命の無益を説く。まず、こう述べる。「蜀は軍事力をもって、蛮族達を服従させ、長年盛んに税を取り立ててきました。もし今、切羽詰まって彼等を頼ったら、反逆されるかも知れません。これが第一の理由です。」
・次にこう述べる。「魏は蜀を取るだけでは飽き足らず、勢いに乗って追撃してくるでしょう。これが第二の理由です。」
・更にこう述べる。「例え、(蛮族たちに)受け入れられても、魏軍を防ぎつつ、日々の生活を維持しなければいけません。そのためには、膨大な経費がかかり、蛮族から取り立てるしかありません。そうなれば、すぐに背かれるでしょう。これが第三の理由です。」
・最後にこう述べる。「陛下が南方に向かわれましたら、蜀の人々は父母を棄ててまで、また、強国に逆らってまで、我々に従うとは限りません。これが第四の理由です。」劉禅はその後、魏に降伏し、安楽公に取り立てられる。




後年
・司馬昭から招聘される。途中で発病し、結局行かず。
・司馬炎が(魏になり代わって)晋王朝を立てる。司馬炎は譙周を招聘。同時に、各地の役所に詔を出し、譙周の世話をさせる。やがて、譙周は洛陽に到着し、騎都尉に任じられる。譙周は爵位、封土をお返ししたいと願い出たが、聞き入れられず。

・あるとき、陳寿にこう言う。「孔子は七十二歳、劉向・楊雄は七十一歳で死去した。私は今七十歳。彼等に倣いたいものだ。」
・散騎常侍(行幸に随行する)に任じられたが、病身のため拝命せず。やがて死去する(享年不明)。
・著述、編纂した著書は百余篇に上る。「法訓」「五経論」「古史考」など。
陳寿は譙周を評して言う。「文章(古典)の解釈に広く通じ、当代の大儒であって、董仲舒(とうちゅうじょ)、楊雄の域に達していた。」




蒋琬 費禕


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