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カンネイ コウハ
甘寧 興覇
  
~元無頼漢の勇将~

 呉の将。長らく武侠生活を送り、やがて黄祖に仕える。その後孫権の配下に入り、何度も活躍する。



荊州に行く
・益州の巴郡出身。郡の役人となるも、官位を棄てる。
・遊侠生活を送り、手下たちを従える。陸路と水路を駆使し、各地に出没。郡内で幅を利かせ、勝手に事件を裁き、治安を司る。こうして、二十年余り、顔役として活動する。

・ある程度学問を身に付け、荊州の劉表に目通りする。
・「英雄記」には、「劉璋に反乱したが、失敗して荊州に逃れた」という記述がある。(同名の別人という可能性もある。)
・荊州の空気が合わず、ほどなく呉を目指して出発。(劉表は他国の制圧より、自国の安定に関心あり。また、文化国家を志向し、礼教体制を敷いている。)
・江夏郡(荊州東部)を通る途中、黄祖に引き留められる。(黄祖は江夏太守で、劉表の傘下。孫家との国境を長年守備。)

・孫権が江夏に進軍する。甘寧は兵を指揮し、呉将凌操を射殺。敵の追撃を断ち切る。黄祖は配下の蘇飛から、甘寧重用を勧められたが、聞き入れず。(恐らく、制御しがたいと考えた。)
・蘇飛から、江東行きを勧められる。これに従い、孫権の配下に入る。




孫権時代1
・孫権に進言する。「荊州は、豊かで守りやすい地です。荊州を足がかりにすれば、巴蜀も狙えます。」張昭が、「国内で反乱の危険があります」と述べ、これに反対する。甘寧は言う。「国内を治めるのが、貴方の仕事です。それとも、自信がないのですか?」(絶妙な返し。)
・黄祖討伐に随行。孫権の軍は黄祖を討ち取り、蘇飛は捕らえられる。甘寧は蘇飛の助命を頼み、聞き入れられる。


・赤壁の戦いで活躍する。
・周瑜の南郡攻略に参加。あるとき、自ら志願し、夷陵県に進軍する。ほどなく城を奪取。
・敵軍が夷陵城に到来し、甘寧は篭城する。敵は数千の兵、甘寧は千の兵。しかし、甘寧は悠然と構える。その内に周瑜が救援し、包囲軍は撃退される。

・孫権が皖(かん)城に進軍し、甘寧はこれに随行する。(城の守将は、廬江太守の朱光。)呂蒙の指揮の元、自ら攻城用の梯子を上り、城を陥落させる。




孫権時代2
・劉備配下の関羽が、荊州に駐在。魯粛が益陽県で関羽を防ぎ、甘寧もこれに従う。甘寧は牽制策を提案し、自ら千の兵で河岸に駐屯。関羽はこれを知り、渡河を断念する。(当時、劉備と孫権は、全面的な敵対関係にはなかった。恐らく、関羽は甘寧の気質を考え、渡河すれば大ごとになると考えた。)

・孫権は、江夏郡の陽新県・下雉(かち)県を分離し、新たに西陵郡を作る。甘寧は、益陽での功をもって、西陵太守に任じられる。(この西陵郡は、後に廃止される。また、宜都郡が一時「西陵郡」と改名されるが、関連はない。)

・合肥(がっぴ)の戦いに参加する。孫権が撤退を始めると、敵将張遼が急襲。甘寧は奮戦し、孫権を守る。
・孫権が濡須(じゅしゅ)で曹操と対峙し、甘寧はこれに参加する。あるとき、甘寧は百人で夜襲をかける。敵の軍営の中を暴れ回り、敵軍が集結する前に、速やかに引き上げる。孫権は言う。「曹操には張遼がいて、私には甘寧がいる。これで、釣り合いが取れている。」(以上は、有名な活躍。「三国志演義」でも描かれる。)


・性格は開けっぴろげで、計略も有する。私財を惜しまず、士を敬う。手下の兵をよく養い、兵も甘寧に忠誠を誓う。
・粗暴にして殺戮を好む。あるとき料理番が失敗をし、呂蒙の元に逃げ込む。呂蒙は甘寧と話し、殺さない約束をさせ、料理番を返す。甘寧は帰り道、料理番を木にくくり付け、弓矢で射殺する。その後、船上で上半身裸となり、横になって寝転がる。呂蒙は甘寧を討とうとしたが、母の諫めであえて許す。甘寧は嗚咽する。

陳寿は甘寧ら12人の将をまとめて評する。「江表の虎臣であり、孫氏に厚遇された。孫氏は彼等を用いたから、東南の地を制圧できた。」




黄祖 呂蒙


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