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リョフ ホウセン
呂布 奉先
  
~最強の騎兵隊長~

 後漢の群雄。初め丁原に仕えたが、やがて殺害し、董卓に付く。後に董卓の暴虐ぶりに危機を感じ、大臣王允の計画の元、これを暗殺する。やがて独立勢力となり、度々曹操を苦しめたが、最後は敗死する。



初期
・并州(へいしゅう)の五原郡出身。(五原郡は北の辺境。)弓馬に秀で、並外れた膂力(りょりょく)を有する。
・驍武(驍勇と武才)をもって州に仕える。やがて丁原(州刺史)が騎都尉を兼ね、河内郡に駐屯。呂布はこのとき、丁原の主簿に任じられ、大層親愛される。(呂布が主簿になったのは、腹心と護衛を兼ねたということだろう。)


・董卓が朝廷を制圧し、丁原と権力が衝突。呂布は、丁原を裏切って殺害し、董卓の元に参じる。(丁原は、粗野一辺倒。呂布は恐らく、丁原の敗北を予測し、その前に董卓に付いた。)その後、董卓を義父とし、常に身辺を警護する。




董卓打倒・流浪
・董卓は長安遷都を強行し、日々横暴を振るう。一方、呂布は董卓の侍女と密通し、発覚を恐れる。また、董卓はあるとき機嫌を損ね、呂布に戟(げき)を投げ付ける。(理由は不明。)
・これらにより、呂布は危機を覚え、王允の董卓暗殺計画に加わる。呂布は、宮門の前で董卓を殺害する。

・董卓の旧将李傕、郭汜らが10万の軍を糾合。長安に進軍する。呂布は郭汜と一騎打ちし、これを敗走させる。しかし、大局は変わらず、やがて呂布の軍は敗れる。


・流浪ののち、袁紹の配下に入り、黒山の張燕と対する。数十騎を率い、何度も敵陣に突撃をかけ、大軍を撃破する。(「三国志演義」には描かれない活躍。)
・袁紹の領内で略奪を行う。袁紹は呂布暗殺を試みたが、呂布は察して脱出し、再び流浪する。
・地方長官の張邈(ちょうばく)、張楊を順に頼る。(二人とも仁徳をもって知られる。また、張楊は(呂布同様)并州の出身で、武才もあり。)呂布は、このそれぞれと親交を結び、その後立ち去る。




兗州の攻防
・曹操(仮の兗州牧)が、徐州(陶謙の領地)に出征する。陳宮(曹操の参謀)が、曹操の留守の間に、張邈の元に走る。呂布は張邈、陳宮に招かれ、兗州牧を名乗る。
・陳宮共々、州内の諸県を攻略し、大半を支配下に収める。


・曹操が兗州に戻り、呂布はこれと対する。騎兵を率いて合戦し、曹操を撃破する。三か月対陣が続き、決着は付かず。(「程昱伝」には、「曹操の軍は度々敗北した」と記される。)やがて蝗が発生し、双方引き上げる。
・再び曹操と対峙。しかし、奇襲に遭って敗れ、兗州から去る。(その後、曹操は正式な兗州牧となる。)




徐州に割拠
・徐州に行き、州牧の劉備を頼る。やがて、劉備は袁術迎撃に向かう。張飛が本拠地の下邳(かひ)城を守ったが、同僚の曹豹と内紛。呂布はこれに乗じ、下邳城を襲撃して制圧する。(この裏切り行動は、陳宮が勧めた可能性もある。陳宮は袁術派。)
徐州牧を名乗り、再び独立勢力となる。


・袁術が配下の紀霊に命じ、劉備(豫州に駐在)を討伐させる。呂布は、「袁術が勢力を伸ばし、臧覇(ぞうは)と連合したらまずい」と述べる。(臧覇は徐州の無頼者で、呂布とタイプが似る。呂布は常々、その存在を意識していたと思われる。)かくて、仲裁することを決定。
・紀霊を宴に招待する。(「後漢書」によると、劉備も招いている。)遠い場所に戟を立て、矢の的とし、「当たったら撤退せよ」と発言。その後、矢を当てて見せ、「これが天の意だ」と述べる。紀霊は撤退。(まるでフィクションの世界だが、正史本文に記される。)




対袁術・対曹操
・袁術が皇帝を名乗り、呂布を味方に付けようとする。呂布は迷ったが、結局、袁術との敵対を決める。(陳珪の助言による。)
・袁術が張勲に大軍を授け、呂布を討伐する。途中で、張勲指揮下の二将が離反。(陳珪の策による。)呂布は騎兵隊を率い、敵の本営を襲撃。大いにこれを破り、敵は全軍が撤退する。


・曹操が呂布の勢力拡大を案じ、徐州に進軍する。呂布は、下邳城にあって、曹操と対する。
・呂布の軍は、時々曹操と交戦したが、何度も敗れる。(兗州で対戦したときとは逆。)その原因は、軍事以前の問題とされる。無計画で猜疑心が強く、身内の者達を信頼できず、彼等をしっかり統御しなかったという。(その結果、派閥構造が混乱。)代わりに諸将に信頼を置いたが、彼等も互いに猜疑し合った、と記される。(誰が誰の派閥に属しているか、判別できない。)
・長期戦になり、曹操は撤退を考える。しかし、参謀の荀攸・郭嘉が制止。
・水攻めと、部下の裏切りにより、呂布は敗死。後に埋葬される。


陳寿は呂布を評して言う。「虎の如き勇がありながら、優れた戦略を持たなかった。小狡く立ち回り、裏切りを行い、利益だけを見ていた。古代から現在に至るまで、この類の人間が滅びなかった例はない。」(実際は、辺境出身者らしく、現実主義が徹底していたのだと思われる。)また、范曄(後漢書の著者)は、呂布を「裏切りが多かった」とのみ評する。




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