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ヨウヒョウ ブンセン
後漢の政治家。名家に生まれ、高い教養を持ち、帝と朝廷のために尽くす。曹丕の時代まで生きる。
・若年の頃より、家伝の学問を学ぶ。やがて、孝廉、茂才に推挙される。(いずれも官僚の候補枠。前者は郡、後者は州が管轄。)
・議郎(帝の補佐官)を務めたあと、侍中(政治顧問)に任じられる。この頃、蔡邕、盧植らと共に、五経の校正に携わる。
・京兆尹(地方長官)に任じられる。(京兆は、長安を含む一帯。)
・宦官の王甫は、中常侍の地位にあり、長年私腹を肥やす。(地方豪族と連なり、農民は搾取された。)楊彪は、王甫を摘発する。王甫の一族は誅殺され、世の人々は楊彪を称賛。(時期は、「黄巾の乱」の五年前。)
・再び侍中に任じられる。(なお、宦官の権勢は、依然健在。)続いて、五官中郎将(宮廷を警備)となる。
・穎川(えいせん)太守に任じられる。その後、南陽太守に転じる。(治績は不明。善政に努めていたと思われるが、当時の情勢は困難。)
・朝廷に戻り、またも侍中となる。(この少しあと、宦官の横暴が原因で「黄巾の乱」が発生。楊彪は、政治の矯正に努めていたと思われるが、宦官たちの前に力及ばず。)
・永楽少府(皇后への取り次ぎ役)、太僕(儀礼を司る)、衛尉(宮門の防備を司る)を歴任。
・董卓は横暴を振るい、袁紹、曹操らが討伐軍を起こす。董卓は長安遷都を考え、楊彪はこれに反対する。まず、洛陽が都になった経緯、妥当性を述べ、「正当な理由なく、洛陽を捨てたら、一気に人心を失います」と説く。董卓が「方針を変えるつもりはない」と言うと、楊彪はこう述べる。「国を乱すのは簡単ですが、(一度乱れたら)安んじるのは困難です。」董卓は聞かず、楊彪を罷免する。
・その後、董卓に謝罪に行く。すぐに光禄大夫(帝の相談役)に任じられ、ほどなく大鴻臚(対外の諸事を司る)に昇進する。
・長安遷都が完了すると、楊彪は少府(内務全般に関わる)、太常(儀礼を司る)を歴任。やがて、病により官を辞す。
・再び京兆尹となり、長安周辺を統治。(しかし、董卓の権勢は大きく、自由な政治はできず。)
・光禄勲(宮廷の諸官を司る)に任じられる。その後、光禄大夫となる。
・太尉に任じられ、録尚書事も兼ねる。(太尉は防衛大臣、録尚書事は尚書台(帝の秘書機関)を監督。)
・李傕、郭汜が仲違いし、互いに争う。李傕は甥の李暹(りせん)を遣わし、帝を迎え入れようとする。楊彪は、李暹に言う。「今も昔も、帝が人臣の家にお住まいになった例はありません。事を起こすには、まず、天の心に則する必要があります。(道理から外れたら、いずれ事は破綻します。)」李暹は聞き入れない。「将軍(李傕)の計画は、既に決まっている。」
・郭汜の方は、公卿を自陣に引き込む。楊彪は、これを諌める。「臣下が勝手に争い合い、一人は帝に強要し、一人は公卿を拘束。これが、正しい状況と言えるのでしょうか。」郭汜は怒り、楊彪を手打ちにしようとする。しかし、楊密(中郎将)ら多くの者が制止。
・帝が長安を脱出。黄河の水運を利用し、東に向かおうとする。楊彪は、帝に助言する。「私は弘農郡(東方の郡)の出身ですので、一帯の地理を知っています。ここから黄河に入り、東に向かいますと、流れの速い箇所が三十六あります。天子が通られる場所ではありません。」その結果、帝は北に渡河することになる。
・帝は渡河のあと、河東郡に滞在。やがて洛陽に戻る。楊彪は終始、帝のために忠節を尽くしたという。
・尚書令(秘書機関の長)に任じられる。
・病と称し、辞職する。この頃、袁術が帝位を僭称。曹操は、楊彪が袁術の姻族であることから、罪に陥れて逮捕する。まもなく、孔融の取り成しで釈放。
・太常(儀礼を司る)に任じられる。
・あるとき、漢王朝の終わりを予測。足の病気を口実とし、以後参内を控える。
・曹操が死去し、子の曹丕(そうひ)が跡を継ぐ。まもなく、曹丕は魏王朝を開く。群臣は楊彪を賓客とし、敬意を払ったという。
・太尉(三公の一つ)に任じられたが、辞退する。
・あるとき、曹丕が詔勅を下し、楊彪の徳を称揚。(曹丕の楊彪に対する感情・態度は、曹操と好対照。)楊彪は特別に杖を授けられ、同時に、光禄大夫(帝の諮問に答える)に任じられる。
・曹丕在位中、84歳で死去する。
・楊氏は、楊彪までの4代、皆太尉を務める。徳は代々受け継がれたという。
・楊彪の伝記は、陳寿「三国志」にはない。「後漢書」に立伝されている。(楊震伝に付属する形。楊震は楊彪の曽祖父。)
・范曄(後漢書の著者)は、楊彪を評して言う。「誠実を貫き、決して道を外れなかった。」
董卓 李傕 盧植 王允 朱儁
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ヨウヒョウ ブンセン
楊彪 文先
~見識高い忠臣~
後漢の政治家。名家に生まれ、高い教養を持ち、帝と朝廷のために尽くす。曹丕の時代まで生きる。
初期
・司隷の弘農郡出身。後漢の名族の出。妻は袁術の妹。
・若年の頃より、家伝の学問を学ぶ。やがて、孝廉、茂才に推挙される。(いずれも官僚の候補枠。前者は郡、後者は州が管轄。)
・議郎(帝の補佐官)を務めたあと、侍中(政治顧問)に任じられる。この頃、蔡邕、盧植らと共に、五経の校正に携わる。
・京兆尹(地方長官)に任じられる。(京兆は、長安を含む一帯。)
・宦官の王甫は、中常侍の地位にあり、長年私腹を肥やす。(地方豪族と連なり、農民は搾取された。)楊彪は、王甫を摘発する。王甫の一族は誅殺され、世の人々は楊彪を称賛。(時期は、「黄巾の乱」の五年前。)
・再び侍中に任じられる。(なお、宦官の権勢は、依然健在。)続いて、五官中郎将(宮廷を警備)となる。
・穎川(えいせん)太守に任じられる。その後、南陽太守に転じる。(治績は不明。善政に努めていたと思われるが、当時の情勢は困難。)
・朝廷に戻り、またも侍中となる。(この少しあと、宦官の横暴が原因で「黄巾の乱」が発生。楊彪は、政治の矯正に努めていたと思われるが、宦官たちの前に力及ばず。)
・永楽少府(皇后への取り次ぎ役)、太僕(儀礼を司る)、衛尉(宮門の防備を司る)を歴任。
董卓の時代
・董卓(辺境出身の武将)が朝廷を支配。楊彪は、司空、続いて司徒に任じられる。(司空は民政大臣、司徒は内政全般に関わる。董卓は、名声高い楊彪を任用し、人々の支持を得ようとした。)
・董卓は横暴を振るい、袁紹、曹操らが討伐軍を起こす。董卓は長安遷都を考え、楊彪はこれに反対する。まず、洛陽が都になった経緯、妥当性を述べ、「正当な理由なく、洛陽を捨てたら、一気に人心を失います」と説く。董卓が「方針を変えるつもりはない」と言うと、楊彪はこう述べる。「国を乱すのは簡単ですが、(一度乱れたら)安んじるのは困難です。」董卓は聞かず、楊彪を罷免する。
・その後、董卓に謝罪に行く。すぐに光禄大夫(帝の相談役)に任じられ、ほどなく大鴻臚(対外の諸事を司る)に昇進する。
・長安遷都が完了すると、楊彪は少府(内務全般に関わる)、太常(儀礼を司る)を歴任。やがて、病により官を辞す。
・再び京兆尹となり、長安周辺を統治。(しかし、董卓の権勢は大きく、自由な政治はできず。)
・光禄勲(宮廷の諸官を司る)に任じられる。その後、光禄大夫となる。
李傕の時代
・大臣王允、武将呂布が董卓を暗殺する。その後、董卓の旧臣李傕、郭汜が長安に進軍し、王允らは敗れる。楊彪は李傕らにより、司空に任じられる。やがて、天災の責任を取って辞職。
・太尉に任じられ、録尚書事も兼ねる。(太尉は防衛大臣、録尚書事は尚書台(帝の秘書機関)を監督。)
・李傕、郭汜が仲違いし、互いに争う。李傕は甥の李暹(りせん)を遣わし、帝を迎え入れようとする。楊彪は、李暹に言う。「今も昔も、帝が人臣の家にお住まいになった例はありません。事を起こすには、まず、天の心に則する必要があります。(道理から外れたら、いずれ事は破綻します。)」李暹は聞き入れない。「将軍(李傕)の計画は、既に決まっている。」
・郭汜の方は、公卿を自陣に引き込む。楊彪は、これを諌める。「臣下が勝手に争い合い、一人は帝に強要し、一人は公卿を拘束。これが、正しい状況と言えるのでしょうか。」郭汜は怒り、楊彪を手打ちにしようとする。しかし、楊密(中郎将)ら多くの者が制止。
・帝が長安を脱出。黄河の水運を利用し、東に向かおうとする。楊彪は、帝に助言する。「私は弘農郡(東方の郡)の出身ですので、一帯の地理を知っています。ここから黄河に入り、東に向かいますと、流れの速い箇所が三十六あります。天子が通られる場所ではありません。」その結果、帝は北に渡河することになる。
・帝は渡河のあと、河東郡に滞在。やがて洛陽に戻る。楊彪は終始、帝のために忠節を尽くしたという。
・尚書令(秘書機関の長)に任じられる。
曹氏の時代
・曹操が帝を奉じ、許への遷都を実行する。その後、曹操が宮殿に参内した際、楊彪は不満の表情を浮かべる。曹操は楊彪を脅威に感じ、宴の際暗殺しようとする。(曹操から見て、楊彪は保守派の筆頭。)楊彪はこれを察し、厠(かわや)に行くと見せかけ、脱出する。
・病と称し、辞職する。この頃、袁術が帝位を僭称。曹操は、楊彪が袁術の姻族であることから、罪に陥れて逮捕する。まもなく、孔融の取り成しで釈放。
・太常(儀礼を司る)に任じられる。
・あるとき、漢王朝の終わりを予測。足の病気を口実とし、以後参内を控える。
・曹操が死去し、子の曹丕(そうひ)が跡を継ぐ。まもなく、曹丕は魏王朝を開く。群臣は楊彪を賓客とし、敬意を払ったという。
・太尉(三公の一つ)に任じられたが、辞退する。
・あるとき、曹丕が詔勅を下し、楊彪の徳を称揚。(曹丕の楊彪に対する感情・態度は、曹操と好対照。)楊彪は特別に杖を授けられ、同時に、光禄大夫(帝の諮問に答える)に任じられる。
・曹丕在位中、84歳で死去する。
・楊氏は、楊彪までの4代、皆太尉を務める。徳は代々受け継がれたという。
・楊彪の伝記は、陳寿「三国志」にはない。「後漢書」に立伝されている。(楊震伝に付属する形。楊震は楊彪の曽祖父。)
・范曄(後漢書の著者)は、楊彪を評して言う。「誠実を貫き、決して道を外れなかった。」