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デンヨ コクジョウ
田豫 国譲
  
~魏屈指の奇謀・人徳~

 魏の臣。曹操の時代、南陽太守となり、大いに民を安んじる。後に北の辺境を任され、異民族に巧みに対処し、随一の治績を上げる。対呉戦線でも活躍し、やがて并(へい)州刺史となる。



幽州時代
・幽州の漁陽郡出身。当時、公孫瓚(こうそんさん)が幽州の一帯を支配。やがて、劉備が公孫瓚を頼り、幽州に来る。田豫は年少だったが、劉備の元に身を寄せ、劉備から大いに評価される。(劉備は人物眼に優れる。)
・劉備が陶謙(徐州牧)の元に行き、豫州刺史に任じられる。田豫は随行していたが、母の老齢を理由に、帰郷を願い出る。劉備は涙を流し、別れを惜しむ。

・公孫瓚により、東州県の令の代行に任じられる。
・公孫瓚配下の王門が反乱し、一万の軍で来攻する。田豫は城壁に上り、王門に向かって言う。「君が公孫瓚の元を去ったのは、止むを得ない理由があったからだ、と思っていた。しかし、わざわざ戻ってきて、乱暴を働くところを見ると、ただ乱を好む人間だったに過ぎないと分かる。」更に言う。「水汲み男のように、少ない知恵しか持たない者も、預けられた器物を人に貸したりしない。私は既に、この城を守る任を引き受けている。(城を明け渡すつもりはない。)何故、早く攻めないのだ。」王門は引き返す。


・公孫瓚は常々、田豫が応変の策に長けると認めていたが、重用はできず。(人物眼はあったが、部下を警戒するタイプ。劉備と異なる。)
・公孫瓚は、袁紹と何年も抗争し、遂に滅亡する。漁陽郡は、袁紹の支配下に入ったが、すぐには情勢は安定しない。漁陽郡生まれの鮮于輔が、郡の人々の支持を受け、太守を代行することとなる。田豫はこのとき、長史に任じられる。(長史とは次官。)



曹操に仕える
・鮮于輔が田豫に相談し、誰に帰順すべきか問う。田豫は曹操を勧める。かくて、鮮于輔は曹操を選び、厚遇される。田豫は曹操に招聘され、丞相府の軍謀掾(えん)に任じられる。(当時の丞相は曹操。掾は府の属官で、一つの部局をまとめる。)
潁陰、朗陵の県令を歴任する。(それぞれ、潁川郡、汝南郡の県。両郡とも豫(よ)州。)後には、弋陽(よくよう)太守に任じられる。(弋陽郡は豫州。)いずれの地でも、目立った治績を上げたという。

・代郡(幽州の北西部)で、烏丸族が反乱。曹彰がこれを征伐する。田豫は相に任じられ、曹彰に随行する。ある場所で、烏丸の騎兵が奇襲をかける。田豫は円陣を築き、弓と弩(ど)を配置。空白の場所(円陣の内部)には、(旗を並べ、)兵が充満しているように見せる。敵は前進できず、撤退を開始する。曹彰の軍は追撃にかかり、敵を大敗させる。

南陽郡(荊州)の太守に任じられる。(時期は、関羽が荊州に駐屯していた頃。)
・以前、郡では、侯音という人物が反乱。曹仁が鎮圧する。このとき、当時の太守は、(残余勢力の中の)五百人を拘束。田豫は着任すると、その全てに会い、慰撫、説諭する。彼等は忠誠を誓い、(釈放後)組織を解散させ、郡内はすっかり平穏になる。




辺境統治
・北方の異民族が強盛を誇り、国境地帯を荒らす。田豫は、護烏丸校尉に任じられる。牽招(けんしょう)らと共に、鮮卑族を監督。

・鮮卑の諸部族は、当時互いに連合し、「朝廷に献上物を贈らない」と盟約。田豫は、彼等を分離させることを考え、部族長の一人である素利を懐柔。素利は、朝廷に馬千頭を贈る。かくて、素利は裏切者と見なされ、軻比能(かひのう)の部族から攻められる。(鮮卑は遊牧民族。味方同士で固く結束するが、一度敵と認識したら容赦ない。)

素利の救援に出向く。敵軍の数は多く、田豫は背後を遮断される。田豫は軍営を置き、牛馬の糞を集めて燃やし、密かに軍を動かす。敵軍は明かりを見て、まだ田豫の軍がいると思い込み、追跡が遅れる。
・田豫が馬城に入ると、敵軍はこれを包囲する。田豫は、配下の将を呼び、「旗を立て、太鼓や笛を打ち鳴らしつつ、南門から出撃せよ」と命じる。結果、敵軍は一斉に南門に向かう。田豫は北門から出て、これを挟み撃ちにし、大勝を得る。


・烏丸王の骨進が、横暴に振舞う。田豫はあるとき、百余騎を連れ、骨進の部落に入る。骨進は拝礼したが、田豫は左右の兵に命じ、これを殺害させる。(冷徹、果断な行動。蜀の張嶷を思わせる。)その後、骨進の罪状を述べ立て、骨進の弟を新しい王とする。以後、蛮族は肝を潰し、田豫の威光は砂漠に響き渡る。
・山賊の高艾が暴れ回り、幽州、冀州に被害を与える。田豫は素利に命じ、高艾を殺害させる。

・九年に渡り、異民族の居住区を管轄する。常に諸部族の合併を警戒し、強暴な者、狡猾な者の力を削ぐ。悪事を企む者がいれば、刺殺させたり離反させたりし、常に早めに芽を摘む。(策略能力、決断力共に非凡。)




対呉戦線
・幽州刺史の王雄の一党が、王雄を烏丸校尉にしたいと考え、田豫を讒言(ざんげん)。田豫は、汝南太守に転任となる。(汝南郡は豫(よ)州。)このとき、将軍位が加官。


・勅命を受け、青州の諸軍を統括し、公孫淵(遼東太守)の征伐に向かう。(遼東郡は、幽州の東部。)やがて、戦況は膠着する。(遼東は遠方の地。公孫淵は、十分に準備を整え、待ち受けていたと思われる。)

・孫権が海路より、公孫淵に使者を出し、連合する。田豫は退却することになったが、こう予測する。「呉の船団は、帰還中大風に遭い、成山に向かう。」そこで、一帯の地形を調査し、全ての要害に軍営を設置。彼等を待ち構える。(緻密な頭脳の持ち主。)
・当初、諸将は失敗を予測。田豫の考えを笑っていたが、成功の見込みが立つと、急に積極的に計画に加わる。彼等は、「船上に乗り込んで略奪したい」と主張。田豫は、「追い詰められた敵は必死に戦う」と考え、これを許さず。その後、田豫は計画を成功させる。

・当時、青州刺史の程喜は、田豫の指揮下。常々、不満を抱いていたという。(田豫は郡太守。)程喜は、上奏して言う。「呉の船には宝珠が沢山ありましたが、禁令が緩んでいたため、全て(将兵に)放出されてしまい、官に収めることができませんでした。」その結果、功を称賛されず。


・孫権が十万の軍で、新城(合肥新城)に向かう。満寵(揚州の都督)は、救援に赴こうとする。(満寵の駐在地は寿春。合肥新城の北。)田豫は、孫権の作戦を看破。周りの者に、こう述べる。「孫権が大軍を動かしたのは、新城に我が軍を招き寄せ、雌雄を決するつもりだ。あえてこれを無視し、自由に城を攻撃させれば、敵の鋭気は自然に衰える。我が方は、そのあと軍を動かし、攻撃をかければよい。」かくて、曹叡にそのように意見具申。(汝南郡から、上奏文を送った。)曹叡はこれに従う。孫権は作戦の失敗を知り、ほどなく撤退。
・呉軍が再び、合肥新城に向かう。田豫が出向くと、すぐに撤退する。その後、「呉軍が引き返し、襲撃してきた」という噂が流れる。田豫は横になったまま、「騒ぐ者は斬る」と言い渡す。ほどなく、デマであることが判明。




再び辺境
・曹芳の時代、護匈奴中郎将、并(へい)州刺史となる。(并州は北方の州。)
・異民族の間には、既に田豫の威名が浸透。どの部族も、朝貢を始める。かくて、国境地帯は鎮まり、民は田豫を敬慕する。

・朝廷に招聘され、衛尉(宮門の守備を司る)に任じられる。しかし、(老齢のため、)辞任を申し出る。司馬懿が、「田豫はまだ強壮である」と判断し、書簡を送って就任を勧める。田豫は、「七十を過ぎても官位にいるのは、不自然なことで、かえって罪です」と返書。病と称し、結局、太中大夫(御意見番)に任じられる。


・「魏略」の記事。田豫は、晩年を魏県で過ごす。あるとき、汝南の役所が、ある用事で魏県に使者を出す。使者は到着後、田豫の旧恩を考え、家を訪れる。田豫は言う。「私は既に老い、お前が来てくれたのに、役に立てないのが心苦しい。どうしたらよかろう。」使者は涙を流して去り、汝南に帰還後、その様子を伝える。郡の人々は絹数千匹を集め、田豫に贈ったが、田豫は受け取らず。その死後、郡の人々は田豫の絵を描き、魏県まで行って碑を立てる。

・「魏略」の記事。田豫の人となりは、清廉で慎み深く、質素を重んじる。褒景品は、全て将兵に分け与える。(辺境に駐在時、)異民族からの贈り物も、全て官に収める。結果、家族はいつも窮乏。異民族の人々は、田豫の節義を高く評価する。あるとき、素利の部落の者が、田豫にこう言う。「貴方の家が貧しいのを知って、度々牛馬を贈ったのですが、貴方は全て、官に送ってしまわれました。今、内密に金(きん)を差し上げますから、家計の足しにして下さい。」田豫はそれを外部に預け、状況を上奏すると、朝廷から絹五百匹を与えられる。田豫はその半分を官の倉に収め、あとの半分を素利の部落に与える。

・陳寿は田豫を評する。「身を処すること清廉。計略は明白にして、よく練られていた。」




公孫瓚 満寵


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