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カンキュウケン チュウキョウ
毌丘倹 仲恭
  
~魏後期の雄才~

 魏の将。曹叡を補佐し、信任を受ける。幽州に赴任し、高句麗の軍を破る。後に寿春に駐在し、司馬師に反乱したが、討死する。



朝臣時代
・司隷の河東郡出身。毌丘興の子。毌丘興はかつての武威太守。
・平原侯の文学(官職名)となる。(曹丕の時代。)
・曹叡が即位すると、尚書郎に任じられる。(尚書台(秘書機関)の役人。郎は若手の意。)後に、羽林監に昇進する。(羽林(近衛軍の一部)の司令官。)
・曹叡は即位前から、毌丘険と親交があったという。


・曹叡が盛んに宮殿造営を行い、そのために農民を徴発する。毌丘倹は諫言する。「現在、急いで取り除くべきは賊(呉と蜀)でして、急務とすべきは(人民の)衣食です。賊を取り除かず、国の人々が飢え凍えていたら、宮室を立派にしたところで、何の益がありましょうか。」曹叡の返答は、特に記されない。(なお、毌丘険以外にも、多くの者が諫言。しかし、曹叡はなかなか考えを改めず。)




幽州鎮撫
荊州刺史に任じられる。
・曹叡が、公孫淵(遼東太守)の討伐を企てる。曹叡は「毌丘倹ならいい計策を取れる」と判断。毌丘険は、幽州刺史に任じられる。将軍や校尉の官位も加えられ、公孫淵の討伐に赴く。
・襄平まで到達すると、烏丸族五千人が降伏。彼等を侯・王に取り立て、身分に応じて適切な贈与物を与える。
・公孫淵が出撃し、毌丘倹はこれを撃破する。(城は落とせず撤退。)翌年、司馬懿が公孫淵を討ち滅ぼす。


・高句麗が反乱する。毌丘険は一万の軍を率い、高句麗の討伐に赴く。位宮(高句麗の王の一人)の軍(二万)と対戦し、連勝を重ねる。
・数年後、再び討伐に赴き、位宮を逃走させる。玄菟(げんと)太守の王頎(おうき)を起用し、追撃させる。王頎は行く先々で勝利する。




揚州赴任
監豫(よ)州諸軍事となり、豫州刺史を兼任する。諸葛誕が東興で(諸葛恪に)敗れると、毌丘険は、諸葛誕と任地を交替することとなる。諸葛誕は都督豫州諸軍事となり、毌丘険は、都督揚州諸軍事に任じられる。
・後に、諸葛恪が進軍し、合肥新城(魏の拠点の一つ)に向かう。毌丘険は文欽を従え、城を守る。その内に、司馬孚(しばふ)が来援し、諸葛恪は撤退する。


・夏侯玄、李豊が司馬氏の打倒を画策。失敗して殺害される。毌丘倹はかつて、両者と親交があったため、司馬氏を警戒する。そこで、文欽(武勇で知られる)を手なずけ、味方に付ける。(文欽は曹爽と同郷で、曹爽は以前司馬懿に殺害された。文欽はこの事件以後、司馬氏を警戒。)




対司馬師
・反乱に踏み切る。淮南(わいなん)の諸軍営を脅迫し、一帯の将兵・官民を取り込み、寿春に入城させる。その後、西の項城に駐屯し、寿春と協力態勢を取る。

・司馬師が、項城に進軍。あえて出撃を避け、守りを万全にする。毌丘険は項城にいる限り、攻撃の手立てがなかなかない。しかし、項城から離れると、寿春を援護できなくなるため、項城から動けない。結果、長期戦を強いられる。
・淮南の将兵は、魏の内地に家がある。対峙が続く内に、次々司馬師に降伏する。(毌丘険は名将だったが、準備を整える時間が不足していた。)淮南生まれの農民のみ、毌丘険に従い続ける。
・文欽を出撃させたが、敵の態勢は万全。迎撃を受け、そのまま潰走する。毌丘険も城から撤退し、追撃軍に射殺される。文欽は呉に降る。


・陳寿は毌丘倹をこう評する。「ずば抜けた才腕と識見があった。」
・陳寿はまた、王凌、毌丘倹、諸葛誕、鍾会を一まとめにし、「名声と地位がありながら、判断力を狂わせた」と評している。




司馬師 司馬昭 諸葛誕

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