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三国志とは?

 あらすじなどを、分かりやすくまとめます。



二つの「三国志」
 晋の時代、陳寿という人物が、「三国志」という書物を著述。これは、正史(公式の歴史書)に類する。
 もう一つ、羅貫中著「三国志演義」というのがある。こちらは、史実を元にした小説で、明の時代に成立。

 従って、三国志といえば、意味は二通りある。
 一つは、「陳寿『三国志』に記される時代」。つまり、後漢時代の後期~三国時代を指す。
 もう一つは、「『三国志演義』に描かれる物語」。基本的な流れは歴史通り。
 また、この両者を総合的に見て、三国志と呼ぶ場合もある。




あらすじ
 三国志の歴史を、ざっくりまとめてみる。

 まず、後漢の後期、宦官(かんがん)が台頭。(皇帝の世話係。)王朝は衰退し、悪政が行われる。
 184年、張角という人物が農民を率い、「黄巾の乱」を起こす。これは、一通り鎮圧されたが、残党はしばらく健在。
 189年、董卓(辺境出身の武将)が朝廷を制圧し、横暴を振るう。袁紹(名門貴族)らがこれに対抗する。
 次第に、群雄割拠の時代となる。その中で、曹操、孫権、劉備が台頭する。孫権は三代目。まず孫堅が軍閥を築き、子の孫策が地盤を確立し、その弟の孫権が発展させた。

 曹操は、華北(中国の北半分)を全て制圧。(本拠地は魏郡。)政治にも長け、従来の儒教社会を改革し、法治を行き渡らせた。
 曹操は、最大の勢力を有していたが、自ら皇帝にはならなかった。曹操の死後、子の曹丕(そうひ)が、魏王朝(漢王朝の後継)を開く。(220年。)曹丕は、陳羣(ちんぐん)ら儒家官僚を重用した。
 一方、孫権は華南の東を支配し、呉王朝を設立。(229年。)また、劉備は華南の西を支配し、蜀王朝を設立。(221年。)劉備は、漢の正統な後継を称した。

 一般に、魏王朝成立時が、三国時代の始まりとされる。(呉・蜀は、まだ正式な独立国ではなかったが。)


 魏では、次第に司馬氏が実権を握る。司馬懿、子の司馬師、その弟の司馬昭が権勢を振るった。
 263年、司馬昭は蜀を併呑し、魏と呉の二国となる。(以後、事実上は二国時代だが、時代区分上は「三国時代」に含まれる。)
 265年、晋という王朝が誕生する。魏王朝になり代わった形。初代皇帝は司馬炎という人物(司馬昭の子)。
 280年、司馬炎は呉を併呑し、三国統一が成った。ここまでが、三国志の時代。




呼称について
 魏、呉、蜀は王朝の名称。
 しかし、王朝成立以前も、この三つの呼称は使われていた。
 以下で、用法についてまとめる。


 まず、「魏」について。
 曹操は華北を制してのち、魏国(漢王朝の藩国)を建て、国公となる。(後に国王に昇格。)所領地は、魏郡を含む十郡。
 曹操はあくまで、漢帝国の一部をなす「魏国」の王だった。しかし、曹操の勢力の代名詞として「魏」が使われた。


 次に「呉」について。
 孫権は長らく、呉郡(の呉県)を本拠地としていた。この呉郡は、江東(長江の東)の要地であり、存在感のある地域だった。
 結果、(王朝成立前から、)孫権の勢力の代名詞として「呉」が使われた。


 最後に「蜀」について。
 劉備は、益州という州を制圧し、これをメインの領地とした。当時、益州の中心部は、「蜀」という土地名で呼ばれていた。(また、益州の首都は、蜀郡の成都県。)
 結果、(王朝成立前から、)劉備の勢力の代名詞として「蜀」が使われた。






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