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許靖の評判の理由


時期1
 許靖は、漢王朝、劉璋、劉備に仕えた文臣。当時の世、取り分け士大夫層の間で、高い評判のあった人物。
 まず、その経歴を追っていく。

 許靖は、豫州汝南郡の生まれ。的確な人物評定で知られる。故郷での生活ののち、朝廷に出仕した。
 当時は何進(外戚)の時代。許靖は騒乱の朝廷で、日々人事に尽力する。やがて、宦官が何進を殺害し、袁紹が宦官を滅ぼす。董卓が朝廷を制圧。

 許靖は、周毖(しゅうひつ)と協力し、絶えず官界の浄化に努める。宦官の滅亡を機に、政治体制の回復を目指し、清流派の人士たち(評判が確かな者たち)を地方長官にした。(董卓は暴君だったが、官僚の任用には、特に口を出さず。)


 その内に、袁紹が董卓討伐軍を起こす。許靖らが起用した地方長官は、多くが反董卓分子となり、袁紹に味方する。これは恐らく、許靖らの想定外の出来事。
 許靖は都を出奔し、避難生活に入り、陳禕(ちんい)、許貢、王朗を順に頼る。その中で、親類縁者、同郷の者を多く引き取る。(族縁、地縁による繋がりは、当時基本に置かれた。また、許靖は仁を重んじる。)




時期2
 やがて、孫策が江東に進出。許靖は一族郎党を連れ、交州に逃亡する。途中、疫病で多くの仲間を失い、苦難の末に到着したという。(なお、史家の裴松之は、逃亡の必要はなかったと指摘する。確かに、孫策は略奪などは行わなかったが、名士層に対する態度は複雑だった。)


 後に、劉璋の治める益州に行き、蜀郡太守を務める。(なお、益州、蜀郡の治所は、いずれも成都。)やがて、劉備が益州を攻略し、成都を包囲。成都の官民は団結し、抗戦の気構えを見せる。(恐らく、成都周辺は統治状況がよかった。)しかし、許靖は、城壁を越えて降ろうとする。現実主義だったのかも知れない。(当時、時勢は劉備の方にあった。)

 その後劉璋は降り、劉備が益州を制圧。参謀の法正は、こう言う。「許靖は名声がありますが、中身は伴っていません。しかし、世間の人々は、それを知りません。任用しなければ、世間は納得しないでしょう。」その後、許靖は長史(次官)に任じられる。




人物像
 許靖の名声は、本当に虚名だったのだろうか?そもそも、どのような名声があったのか?
 まず、朝臣時代の尽力が挙げられる。不安定な時代、確固とした意志を持ち、常に公正、適切な人事を行った。この時点で、大きな評判が生じたと思われる。

 また、交州時代、同じく避難者の袁徽(えんき)が、荀彧に書簡を送って言う。「許文休(許靖)は、良計を立てるに足る知略を持ちます。いつも九族全てと苦難を共にし、仁に基づいた規律を作っています。皆が恩恵に預かって感謝し、その例は数え切れません。」
 恐らく、許靖が連れていた一族郎党は、結構な数に上る。彼等の居住地は、小さな集落を形成したと思われる。袁徽の言う、許靖の知略とは、共同体のまとめ役としての手腕。仁心に加え、優れた計画力を有していた。儒教の精神の元、上からの規律、個人の充足を合致させ、調和を実現させる。


 後漢帝国は、元来、各地の郷村共同体を基底としている。理念としては、それらは国家の縮図でもある。
 許靖は不安定な時代、何年にも渡り、時に流浪も強いられながら、一つの共同体を懸命にまとめ続けた。許靖は、ある面、士大夫の理想の在り方を体現していた。
 また、許靖はかつて、朝廷の中枢で活躍。そういう人物が、原点に戻り、身近な人々の救済、指導に尽力した。これも、名声が高まった原因だろう。

 許靖は、その一方で、官界に復帰したい気持ちも持っていた。(交州時代、曹操への手紙の中で、その思いを綴っている。)後に劉璋、劉備の元で、その志を得る。


 なお、許靖の交友関係などに目を向けると、人物像が更に浮かんでくる。
 許靖はまず、華歆、王朗と親交あり。いずれも、有徳の儒家官僚。更に、気骨の士・袁渙とも親交があったという。また、蒋済も許靖を評し、「総じて、宰相の器」とした。この蒋済は、曹氏三代に仕えた能臣。
 許靖は、世間の漠然とした評判だけでなく、実際多くの人士に認められていた。




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