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魯粛は、個性的な人物でもある。何かと、豪放、大胆な言動が目立つ。故郷時代は、度々仲間たちを連れ、山野で狩猟、兵法訓練などしていた。その一方で、家財を大胆に散じ、貧者たちを救う。
その後、魯粛は江南(長江の南)に目を向け、孫権に仕える。曹操が南下した際、魯粛は孫権を煽り、抗戦へと駆り立てる。孫権は曹操に勝利し、独立を保った。(有名な「赤壁の戦い」。)
この魯粛は、親劉備派でもある。赤壁戦のあと、孫権は魯粛の提案を受け、劉備に荊州を預ける。結果として、劉備は飛躍を遂げ、孫権の制御から離れた。
これは、魯粛の失策とも捉えられるが、簡単に断じることはできない。当コーナーでは、魯粛の心算を探っていく。
魯粛は大豪族の出身だが、名家(官僚の家系)の出身ではない。漢王朝に早々と見切りを付け、孫家を支援することを決める。孫家の勢力は、当時新興で、飛躍の可能性を秘めていた。
魯粛はまた、日々学問に努め、見識を高める。性格は豪放だが、根底に高い知性・理性を備えていた。孫家を支援した動機は、即物的野心だけではなく、何らかの理想を抱いていたと考えられる。
当時、後漢王朝は衰退。その政治体制は、礼教(儒教倫理)を基本としたのだが、既に形骸化が進んでいる。一方、江南人は、倫理より感情というタイプが多い。彼等は、直接的な人的繋がりを重んじた。
魯粛は本来、理性的な人物だが、心意気、感情性といったものを好む。それは、言動の節々から窺える。
また、硬直化した儒教社会の打破には、江南の気風が役に立つ。当時の中原では、家柄や品行が過度に重んじられ、窮屈、不公平な世の中になっていた。(その反動として、横暴な豪族が増加。)魯粛は恐らく、時代の混乱を一つの機会と捉え、思い切った変革を目指した。
魯粛の計画は、天下二分からの全土統一。南から北へと、新時代を築いていくというもの。(北とは、曹操の領地。)
勿論、劉備が勢力を伸ばし、自立を目指す可能性がある。魯粛は恐らく、劉備を制御することには、それほどこだわっていなかった。
魯粛の想定は、中原から曹操を駆逐すること、そして、孫家による新時代の構築。劉備に関しては、孫家に役立つ自治勢力と見る。
曹操は基本的に、優れた政治家。法治を掲げ、合理的に世を治めようとする。しかし、独善的な面も持ち、苛烈な性格でもある。(かつては、徐州(魯粛の故郷)を徹底的に蹂躙した。)曹操が荊州に進出したとき、多くの官民がこれを避け、劉備と共に逃亡。曹操の人望は、決して万全ではなかった。
魯粛は、曹操を新時代の指導者と認めがたい。一方、劉備とは、基本的に相性が合ったと思われる。(劉備は魯粛同様、大らかな視点で世を見る。イデオロギーにこだわらない。)魯粛が親劉備路線を取ったのは、第一に戦略上の理由によるが、恐らくそれだけでもない。
魯粛にとって、これは誤算だったと思われる。しかし、劉備が益州を取る事態を、全く想定していなかったとも思えない。もしそうなっても、その後劉備と協力態勢を続け、東西から曹操と対すればよいと考えていたのだろう。魯粛にとって、劉備は相容れない存在ではない。
この頃、関羽が荊州に駐屯(劉備の代理的立場)。魯粛も荊州にあり、軍備、外交、内政に尽力する。関羽との国境地帯を、抜かりなく取りまとめた。
しばらくのち、魯粛は死去し、呂蒙が後継者となる。呂蒙は関羽討伐を説き、孫権は同意する。魯粛の方針(親劉備路線)は転回された。
その後、呂蒙は関羽に勝利し、劉備の勢力は荊州から排される。しかし、曹操打倒は当面遠のく。
一方の呂蒙は、孫家の興隆を第一とし、劉備を目の上のタンコブと考えた。
あるいは、魯粛の方針は既に現実的ではなく、呂蒙は見切る決断をしたという捉え方もできる。この辺は、容易には分からない。
なお、劉備の配下に、龐統という才人あり。一度、免官されそうになったが、魯粛が劉備に書簡を送って弁護。龐統の長所を詳細に述べる。恐らく、魯粛と龐統は、かつて親交があった。そして、考えをある程度共有していた可能性がある。
龐統はその後、劉備に重用され、諸葛亮に次ぐ信頼を受ける。活躍を重ねたが、成都制圧前に戦死する。(成都は益州の首都。)龐統が存命だったら、劉備と孫権の関係は、もっと円滑になっていたかも知れない。
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曹操は革新派か?保守派か?
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魯粛の心算とは?
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魯粛の心算とは?
人物像
魯粛は、呉の名臣の一人。知謀の士として知られた。魯粛は、個性的な人物でもある。何かと、豪放、大胆な言動が目立つ。故郷時代は、度々仲間たちを連れ、山野で狩猟、兵法訓練などしていた。その一方で、家財を大胆に散じ、貧者たちを救う。
その後、魯粛は江南(長江の南)に目を向け、孫権に仕える。曹操が南下した際、魯粛は孫権を煽り、抗戦へと駆り立てる。孫権は曹操に勝利し、独立を保った。(有名な「赤壁の戦い」。)
この魯粛は、親劉備派でもある。赤壁戦のあと、孫権は魯粛の提案を受け、劉備に荊州を預ける。結果として、劉備は飛躍を遂げ、孫権の制御から離れた。
これは、魯粛の失策とも捉えられるが、簡単に断じることはできない。当コーナーでは、魯粛の心算を探っていく。
江南への関心
魯粛はそもそも、どういう主義や思想を持っていたのか?気概の大きさは、恐らく天性のものだが、モチベーションは何だったのだろうか。魯粛は大豪族の出身だが、名家(官僚の家系)の出身ではない。漢王朝に早々と見切りを付け、孫家を支援することを決める。孫家の勢力は、当時新興で、飛躍の可能性を秘めていた。
魯粛はまた、日々学問に努め、見識を高める。性格は豪放だが、根底に高い知性・理性を備えていた。孫家を支援した動機は、即物的野心だけではなく、何らかの理想を抱いていたと考えられる。
当時、後漢王朝は衰退。その政治体制は、礼教(儒教倫理)を基本としたのだが、既に形骸化が進んでいる。一方、江南人は、倫理より感情というタイプが多い。彼等は、直接的な人的繋がりを重んじた。
魯粛は本来、理性的な人物だが、心意気、感情性といったものを好む。それは、言動の節々から窺える。
また、硬直化した儒教社会の打破には、江南の気風が役に立つ。当時の中原では、家柄や品行が過度に重んじられ、窮屈、不公平な世の中になっていた。(その反動として、横暴な豪族が増加。)魯粛は恐らく、時代の混乱を一つの機会と捉え、思い切った変革を目指した。
魯粛の計画は、天下二分からの全土統一。南から北へと、新時代を築いていくというもの。(北とは、曹操の領地。)
親劉備派
赤壁戦ののち、魯粛は劉備の活用を説く。即ち、劉備に荊州諸郡を任せ、曹操への対抗馬とする算段。(具体的には、武陵・長沙・零陵・桂陽、そして南郡。)孫権は同意する。勿論、劉備が勢力を伸ばし、自立を目指す可能性がある。魯粛は恐らく、劉備を制御することには、それほどこだわっていなかった。
魯粛の想定は、中原から曹操を駆逐すること、そして、孫家による新時代の構築。劉備に関しては、孫家に役立つ自治勢力と見る。
曹操は基本的に、優れた政治家。法治を掲げ、合理的に世を治めようとする。しかし、独善的な面も持ち、苛烈な性格でもある。(かつては、徐州(魯粛の故郷)を徹底的に蹂躙した。)曹操が荊州に進出したとき、多くの官民がこれを避け、劉備と共に逃亡。曹操の人望は、決して万全ではなかった。
魯粛は、曹操を新時代の指導者と認めがたい。一方、劉備とは、基本的に相性が合ったと思われる。(劉備は魯粛同様、大らかな視点で世を見る。イデオロギーにこだわらない。)魯粛が親劉備路線を取ったのは、第一に戦略上の理由によるが、恐らくそれだけでもない。
劉備の躍進
やがて、劉備は益州(西の広い州)を制圧し、基盤を固める。恐らく、魯粛の予想以上の躍進。元々は周瑜(呉の名将)が益州を攻略する筈だったが、準備の段階で病死し、計画は頓挫した。魯粛にとって、これは誤算だったと思われる。しかし、劉備が益州を取る事態を、全く想定していなかったとも思えない。もしそうなっても、その後劉備と協力態勢を続け、東西から曹操と対すればよいと考えていたのだろう。魯粛にとって、劉備は相容れない存在ではない。
この頃、関羽が荊州に駐屯(劉備の代理的立場)。魯粛も荊州にあり、軍備、外交、内政に尽力する。関羽との国境地帯を、抜かりなく取りまとめた。
しばらくのち、魯粛は死去し、呂蒙が後継者となる。呂蒙は関羽討伐を説き、孫権は同意する。魯粛の方針(親劉備路線)は転回された。
その後、呂蒙は関羽に勝利し、劉備の勢力は荊州から排される。しかし、曹操打倒は当面遠のく。
魯粛と呂蒙
魯粛は新時代の構築を目指し、広い視野から物事を見ていた。劉備を制することにこだわらず、あえて協調を続け、まず中原の曹操を排するという計画。その後、劉備との関係を調整し、天下を安定させる算段だった。一方の呂蒙は、孫家の興隆を第一とし、劉備を目の上のタンコブと考えた。
あるいは、魯粛の方針は既に現実的ではなく、呂蒙は見切る決断をしたという捉え方もできる。この辺は、容易には分からない。
なお、劉備の配下に、龐統という才人あり。一度、免官されそうになったが、魯粛が劉備に書簡を送って弁護。龐統の長所を詳細に述べる。恐らく、魯粛と龐統は、かつて親交があった。そして、考えをある程度共有していた可能性がある。
龐統はその後、劉備に重用され、諸葛亮に次ぐ信頼を受ける。活躍を重ねたが、成都制圧前に戦死する。(成都は益州の首都。)龐統が存命だったら、劉備と孫権の関係は、もっと円滑になっていたかも知れない。
曹操は革新派か?保守派か?
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