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劉禅は名君か否か


在位
 劉禅は、蜀の二代目皇帝。劉備の長子。
 即位したのは、223年。丞相の諸葛亮が補佐し、政事と軍事を統括する。
 諸葛亮は、234年に死去。蔣琬(しょうえん)が後継的立場となり、その死後は費禕(ひい)が継ぐ。いずれも、名宰相として知られた。
 費禕は、253年に死去。以後、朝廷に特別な重鎮はいない。263年、蜀は魏の侵攻を受け、降伏する。劉禅は、洛陽に移住となった。

 まとめると、劉禅の在位は40年。諸葛亮の補佐なしで29年。蔣琬、費禕の補佐なしで10年。




劉禅と諸葛亮
 劉禅はどんな人物だったのか?その伝記には、主に国の出来事が羅列され、劉禅自身の人物像はいまいち分からない。しかし、置かれた環境、他の人物との関連などから、ある程度推測はできる。
 劉禅は207年、荊州で出生した。(劉備は当時、劉表(荊州牧)の傘下。)翌年、曹操の大軍が荊州に向かい、長阪で劉備を攻撃する。劉備は家族を連れる余裕もなく、護衛と共に逃亡。夫人と劉禅は、趙雲(劉備の親衛隊長)に保護された。
 211年、劉備は益州に出征し、三年後首都を制する。その後も魏、呉と絶えず張り合う。

 劉禅は、激動の時代に生まれ、不安定な環境で年少期を過ごした。何も考えずにいられた訳はない。
 益州に移住後は、諸葛亮に後見され、教育を受ける。あるとき、諸葛亮は劉備(白帝城に滞在)に書簡を送り、劉禅をこう評価。「聡明で、成長著しい。」劉備を喜ばせるため、という面もあると思われるが、事実無根なことは書かないだろう。


 即位すると、諸葛亮に国政を委任。劉禅自身は、詔勅や祭祀のみ行う。己の役割をよく理解していたと言える。「君臨すれど統治せず」がベストだと認識し、帝として無難に振舞うことに努めた。蜀の国体は、自ずと確立される。

 諸葛亮は国内を安定させ、呉との関係を整える。また、魏に対し北伐を行う。
 その死後、劉禅は、蔣琬、費禕を信任する。善政が行われ、国力は充実。一方、董允が侍中(側近)となり、お目付け役を務めた。
 蔣琬が246年に死去すると、劉禅は自ら国政に関わったという。(基本的には、費禕が主導。劉禅は、時々に提案を行ったのだろう。)董允も同年に死去し、朝廷の状況は大きく変わる。




人事
 劉禅は、陳祗(ちんし)を侍中、続いて尚書令に任じた。前者は246年、後者は251年。
 陳祗は、費禕に評価された人物。多才にして、慎み深い。また、有徳の士・許靖の遠縁でもある。孤児となってのち、許靖に育てられたという。

 陳祗は常々、劉禅の心情を慮った。諸葛亮、董允は道理を重んじ、厳格な態度を取ったが、陳祗はタイプが異なる。
 劉禅はこの頃から、遊興を好むようになるが、諸葛亮、董允に長年抑制された反動かも知れない。


 やがて、陳祗は死去(258年)。劉禅はしばらく悲嘆に暮れる。心の隙間を埋めるためか、宦官黄皓を厚遇し始める。
 この黄皓は、演義では悪辣さが強調されるが、史実ではそれほどでもない。私情で人事を行った例が少しあり、佞臣(ねいしん)には類するが、国政を破綻させた訳ではない。

 劉禅はまた、董厥(とうけつ)を尚書令に任命。続いて、輔国大将軍に任じる。この董厥は、諸葛亮に評価された人物で、常に熟慮して事を行う。劉禅は基本的に、賢才の起用に努めていた。




国防
 北との国境には、長年、名将の姜維が駐屯。姜維は何度も北伐を行い、魏軍と攻防する。(魏との敵対関係は、天下三分以後、既成の事実。)北伐にこだわったのは、恐らく、大国の魏に付け込まれないため。姜維は軍才を発揮し、度々魏軍を苦戦させる。しかし、一方で、国力は疲弊していった。
 劉禅はこれに対し、打開する手立てを打てない。北伐政策と国内安定の両立は、基本的に困難だったと思われる。
 朝廷内には、北伐反対の声があったが、劉禅はこれに同意せず。劉禅がどういう考えだったのかは不明。

 やがて、魏の司馬師が、蜀征伐を開始。配下の鍾会、鄧艾を進軍させる。鄧艾が急襲作戦を取り、山地から成都に迫る。
 朝廷では、魏に降るという案、南方(異民族の地)に避難するという案が出る。抗戦という選択肢は、基本的になかった。
 当時、蜀の国力は既に疲弊。(呉の張悌や薛珝(せつく)も、以前それを見抜き、蜀を見限る発言をしている。)また、土着の益州人は、蜀王朝に強い忠誠心を持たない。(蜀王朝は、外来者たちが作った国。そして、彼等は郷土を衰退させた。)

 劉禅は、譙周(しょうしゅう)の勧めにより、降伏を決意。(譙周は、土着の益州人。)魏軍は、略奪も粛清も行わず、劉禅、譙周は魏で厚遇された。




まとめ
 かつて、諸葛亮は天下三分を画策し、これを実現させた。しかし、三国が統一されるまで、動乱の時代は終わらない。(諸葛亮が北伐を繰り返した動機は、自分の代でケリを付けたいという責任感かも知れない。)
 劉禅の世代にとって、天下三分は、先人たちの負の遺産でもある。

 蜀は小国ながら、守りに適した険阻な地。劉禅にもっと気概があれば、国を永らえさせることはできたかも知れない。しかし、蜀の滅亡は、時勢だったという見方もある。実際、劉禅の降伏により、益州に安寧が訪れた。

 劉禅には、基本的に、強い主体性はなかったと思われる。しかし、長年そつなく帝位に在り、朝廷に大きな騒乱なし。恐らく、あまり意識せずに、無難な態度や選択を取り続けた。ある種の資質を有していたと思われる。(名君とは呼びがたいが。)また、国は結局保てなかったが、(降伏により)時代は一つ進んだ。




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