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バショク ヨウジョウ
馬謖 幼常

 蜀の参謀。諸葛亮の腹心。



才気
 馬謖は、荊州の儒家の家に生まれる。秀才五兄弟の一人、として知られた。兄馬良の方が優秀とされたが、タイプそのものも違っている。馬良は儒学を専門的に学び、馬謖は兵法書も好んで読んだ。

 当時の為政において、儒教の規範は法典の役割。また、儒学の書は相当に複雑で、体系的な理解は容易ではない。だから馬良のような人物は、当時重宝された。
 一方、馬謖は軍略に傾倒し、積極的に議論を展開する。馬良とは別の方面で、己の個性を示そうとした。しばしば才気を見せ、諸葛亮から高く評価された。(なお、諸葛亮は馬良とも親交。)

 馬謖はまず、綿竹、成都(首都)で県令を歴任。続いて、郡太守に任じられる。馬謖の政務の才は、恐らく馬良に次ぐ。優秀な官僚として、諸事を抜かりなく処理したことだろう。


 馬謖はその後、中央に戻り、諸葛亮の参謀となる。諸葛亮は馬謖と連日話し合い、共に国家の戦略を考えた。
 大規模な戦略を立てるには、まず、多大な情報を処理する必要があると思われる。(財政、地理、そして内外の政情。)その上で諸策を考え、事態の変化を様々に予測し、ベストな選択を定める。
 馬謖は蜀において、それができる数少ない人材。実際、知略の臣として、蜀内で定評があったとされる。初期の蜀帝国の国策は、諸葛亮、及び馬謖の頭脳に大きく拠っていた。




長所と短所
 劉備はかつて、諸葛亮にこう述べている。「馬謖は言葉が先行するから、あまり重用してはいけない。」馬謖は以前、劉備の益州平定に随行している。劉備はそのとき、何かを感じたのかも知れない。

 馬謖は基本的に、頭脳先行タイプ。戦略計画に従事する限り、存分に才を発揮できた。しかし、現場レベルになると、敵味方の心の機微を捉える必要がある筈。精緻に論理を組み立てても、味方が思うように動かなかったり、敵が何か予想外な行動を取れば、論理の土台部分が崩れる。(つまり、砂上の楼閣。)
 馬謖は論理能力、情報処理能力が飛び抜けていた。それをもって、次々、新しい策を生み出したと思われる。しかし、諸葛亮に比べ、堅実さが欠けていた。

 劉備の懸念は、北伐時に的中する。馬謖は街亭において、孤立のリスクを冒し、山上に布陣。敵を牽制し、立ち往生を狙う。しかし、敵将張郃(ちょうこう)はためらわず山を囲み、水路を断つ。そして、馬謖の兵の士気は、予想を超えて低下。軍はほどなく潰走した。(勿論、馬謖の実際の思惑は、はっきり分からないが。)
 この山上布陣は、独断による強行で、諸葛亮の指令に違反。馬謖は帰還後、刑死する。(獄死ともいわれる。)


 また、馬謖の失敗の要因は、もう一つあると思われる。馬謖は、長らく参謀という立場。複雑なことを考えるのは得意だが、自ら決断する習慣が付いていない。
 馬謖の出す指令は、煩雑で統一感がなかったという。馬謖は恐らく、判断と決断というプロセスを十分経ず、頭の中の試行錯誤をそのまま指令にしてしまった。その結果、軍は混乱し、まともに機能せず。
 一方、諸葛亮は、長らく丞相という立場。自ら決断する局面に慣れている。その点も、馬謖と異なっている。





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