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エンジュツ コウロ
袁術 公路

 後漢の群雄。淮南(淮水の南)を支配。袁紹の従弟。



人物像
 名門袁家の嫡子。驕慢な人物と記される。血筋を鼻にかけた男。しかし小豪族出身の孫堅を重用し、その子孫策を気に入るなど、それほど家柄にこだわっていた訳ではない。

 また、史書には、「侠気があった」という記述が3つある。陳寿「三国志」の袁術伝、同じく「三国志」の荀攸伝註釈、更に「後漢書」の何進伝。相当「侠気」を前面に出していたことが窺える。格好付けたがる性格だったのだろう。(なお、袁術と荀攸は、いずれも何進に仕えていたことがある。)

 一方、従兄(異母兄ともいわれる)の袁紹も、同じく遊侠活動をしていた。袁紹の方が人望があり、袁術は常々それを妬んだ。袁紹の元にばかり出入りする者がおり、袁術はその者を「いつか殺す」と息巻いていたという(荀攸伝註釈の記事)。感情豊かな人物だったと思われる。


 袁紹は、その遊侠生活の中で、多くの人士を抱え込む。独自の人脈を築きつつ、政治情勢に関与した。無頼の者達も、袁紹にはよく従ったという。袁紹は、ぶれない強い意志を持っていたのだろう。袁術は強気な性格だが、袁紹に比べ、どこか頼りなさがある。見識者蒯越(かいえつ)による袁術評は、「勇而して断なし」。つまり、心はぐらつきやすい。
 多くの人は勿論、落ち着きがある者を選ぶ。袁術は人望に関し、自ずと伸び悩んだ。袁紹への敵意は、日々募っただろう。


 袁術は、基本的に放蕩を好んだが、仕官のため一時勤勉になる。やがて孝廉(官僚の候補枠)に推挙され、中央と地方で官職を歴任した。袁紹への対抗心もあったと思われる。
 その後は一時共闘し、宦官や暴君董卓と対する。群雄割拠の時代になると、互いに牽制し合う。袁紹は武将としても優れ、北の諸地を一通り平定した。袁術も度々軍事行動を起こし、南方の一帯を手中にしたが、その勢力は袁紹には及ばない。




失政
 袁術といえば、暴政のイメージがある。領土(寿春を中心とする)を荒廃させたと記される。
 実際は寿春に限らず、当時多くの地が戦乱、天災で荒廃していた。寿春も、袁術個人による人災とは別に、日照りのせいもあるという。(「後漢書」。)しかし、袁術が容赦なく課税した事実は変わらない。
 一般に、暴政を行うのは権力欲、自己顕示欲のため。それらはコンプレックスの反動により、しばしば肥大化する。


 なお、沛国(寿春の北)において、「部下が大量の軍糧を民に施す」という事件があった。袁術は怒って詰問したが、結局感嘆したという。
 袁術は奇(非凡なこと、非凡な行い)を尊んだ、と記される。本来、個人の意気を重んじる人物。しかし、その後も、善政を敷いた記録はない。日々、自滅の道を進んだ。

 袁術の死後、その娘は孫権(孫策の弟)の側室となる。袁術の息子も、呉で官位を貰っている。つまり、孫家は、袁術の一族と繋がりを保とうとした。
 袁術に関する世評は、実際のところ、それほど悪い訳ではなかったのだろうか。陳寿は袁術の悪政ぶりを書き立てているが、恐らく、誇張も入っていると思われる。




帝位を僭称
 袁術は、仲という王朝を開き、中華の新しい王朝を称した。袁術に関する評価として、「皇帝を名乗って自滅した」という見方が定番である。「皇帝を名乗った結果どうなるか、予測できなかった愚か者」とも言われる。しかし要するに、皇帝になりたくて仕方なかったのだろう。

 本来ならまず版図を固めるべきだが、それを試みた結果上手くいかないことが分かったら、皇帝への夢は断念せざるを得なくなる。それが嫌だったから、碌に根回しもせず、皇帝即位を断行してしまった。(なお、正統性を主張するために、儒教の預言書を利用。本人が、どこまでそれを信じていたかは不明。)

 当時の人々にとって、王朝とは心の拠り所。袁術は、予め十分な人心を得ることなく、勝手に新しい王朝を開いた。これは、暴挙としか言いようがない。しかし、その暴挙を現になし得たということは、重大な事実だろう。つまり、それだけ漢王朝は衰退していた。
 もし君主一人の気持ちが暴走していて、周りの大半が漢王朝に未練を持っていたら、決して断行はできなかった。新王朝の設立自体は、時代の流れに逆らってはいない。しばらくのち、曹丕(そうひ)、劉備、孫権が、相次いで新王朝を打ち立てる。


 なお、曹丕の魏王朝は、漢の跡を引き継いだ形。しかし、漢の帝(献帝)は、実質抗し得なかった。劉備は言わば勝手に、「漢の正統な後継」を宣言し、蜀王朝を設立した。孫権の呉王朝に至っては、建前すらあまり整えていない。




情勢
 帝位僭称前、袁術を取り巻く情勢は、どういう感じだったのか。

 当時袁術の味方だった群雄は、孫家以外だと、まず公孫瓉。また、過去には、呂布を手なずけたことがある。他にも、董承(朝臣)と通じていた形跡がある。
 公孫瓉は、基本的に儒家を排斥。呂布は端から、倫理的なことは頭にない。彼等は武力を重視し、欲求に従って行動した。
 一方、董承は漢の姻族で、日々帝を補佐している。また、漢王朝は儒教と一体である。


 袁術はまず、名家の出身。基本的に、儒学の素養がある。また、漢王朝を尊重する姿勢を、長い間取ってきた。結果、董承ら朝臣と連なることができた。
 また、一方では、侠による人的繋がりを武器とする。結果、儒教文化の外にいる者とも相性がいい。一時は、何儀、劉辟(りゅうへき)ら黄巾とも通じていた。

 また、強いイデオロギーを持たず、敵の敵であれば誰とでも結び付く。(袁術の敵といえば、袁紹と曹操。一方、公孫瓉は袁紹の敵、呂布・董承は曹操の敵。)しかし、皇帝を名乗った時点で、董承ら朝臣は敵に回った。




主義や思想
 袁術には、儒教はあまり合わない。一族は高級官僚(基本的に儒家)を代々出し、自身も儒学を学んで仕官したが、元来が自由奔放な性格である。

 また、当時の儒教社会はマンネリ化し、閉塞感が存在したとされる。(真面目な儒者の中にも、それを認識していた者は多いという。)儒教は言語を駆使し、明確に規範(礼制)を築くが、(時が経つと)形骸化することがある。袁術のようなタイプが台頭したのも、時代の流れかも知れない。


 袁術は、礼教体制は取らず、儒家名士を偏重することもない。この点では、曹操と共通している。曹操と同様、儒教社会への抵抗者と言える。(両者とも、それを前面に出した訳ではないが。)

 しかし、既存の枠組の外に出る場合、代わりに強い主体性が必要になる。そして、新たな枠組を打ち出す必要があるだろう。曹操は法治や唯才主義を掲げたが、袁術にはそういうのが見当たらない。基本的に、権力欲が先走っていた。

 儒者は人を超えた摂理を想定し、倫理も細かく定め、それらに従って行動する。一方、袁術のようなタイプは、自我のままに振舞い、自分自身の考えで物事を決める。しかし、主体性があるという訳ではない。強い主体性を持つ者は、同時に深い内省性も有する。袁術には恐らく、それが欠けていた。


 帝位僭称後、ただ栄華を求め、民を苦しめた記述しかない。為政者として何がしたかったのか、いまいち分からない。袁術の主義、思想として分かっていることは、昔から侠と無法を好んだということ。
 袁術はかつて、「豪侠」として、地域で幅を利かせていた。しかし、為政者として、一国の人民を治められる器ではなかった。




没落
 帝位僭称自体は、完全に無謀だった訳ではない。呂布はあと少しのところで、味方に付く筈だった。武力に長けた呂布が従っていたら、袁術のその後はまた違っていただろう。

 しかし、呂布の参謀役の陳珪が、「袁術より曹操に味方すべき」と進言。呂布は結局これに従う。袁術は大軍で呂布を討伐したが、配下の二将が寝返って敗北。(これも陳珪の工作による。)その後、曹操にも敗れる。
 なお、袁術と陳珪は、青年時代親交があった。その陳珪が、土壇場の局面で、袁術の飛躍を阻んだのである。

 袁術がかつて目をかけた孫策も、対立の意を表す。こちらの当ても外れてしまった。袁術は孤立していく中、ひたすら貪欲、無軌道に振舞う。元来が粗暴な貴族。その上、自棄になったのだろう。結果、勢力は徐々に瓦解。
 帝位僭称から二年後、袁術は遂に寿春を棄てる。袁紹を頼って落ち延びたが、途中で病死する。

 総じていえば、袁術はしっかりした考えを持たず、それでいて独自的、革新的に動き過ぎた。これで、物事が上手くいくことはないと思われる。本来、悪人タイプではないかも知れないが、段々と道を誤った。





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