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リュウビ ゲントク
劉備 玄徳

 蜀王朝の初代皇帝。中国の南西部を支配。



人物像
 「三国志演義」では、仁の人として描かれる。完璧な人格者とされている。史実だと、必ずしもそうではない。また、正義のために行動していた訳でもない。

 しかし、史実でも、人徳があったのは確からしい。喜怒哀楽をあえて出さず、常に飾り気なく振舞い、物事にわだかまりを持たない。その態度が奥ゆかしさ、器の大きさを醸し出す。また、内には強い志を秘める。
 若年の頃は、遊侠的生活を送り、多くの人と繋がりを持った。その人心掌握力は、以後も変わらない。

 一方、時には、粗暴で直情的な心性を見せる。「三国志演義」には、「郡から来た監察官が賄賂を要求し、張飛が怒って鞭で打つ」という場面があるが、正史だとこれは劉備の行為。
 また、その監察官は、劉備の旧知であった。劉備が怒った理由は賄賂云々ではなく、対面を拒否されたかららしい。人として自然な感情だろう。(器が大きいといっても、何事にも寛容な訳ではない。)演義での人物像より、リアリティがある。


 また、盧植(ろしょく)の門下生だった頃、読書をあまり好まなかったという。元来、言語より感覚というタイプ。官僚としての才は、そこそこ程度だったと思われる。
 一方、武才にはかなり長け、黄巾討伐で度々活躍する。(配下には、豪傑の関羽、張飛もいる。)その後も、中小の勢力を率い、各地で戦歴を重ねる。
 また、青州にいた頃、平原という国の相(長官)に就任。福祉政策と治安強化に努め、領地をよく安んじる。統治者としての資質は、十分に備えていた。(なお、「国」は州の下に置かれる。通常は郡と同等で、平原国も例外ではない。)




飛躍期
 徐州では、牧(長官)の陶謙に見込まれる。その死後、地位を引き継ぎ、独立勢力となる。
 やがて袁術(揚州)と争ったが、呂布(当時客将)に反乱されると、その呂布に帰服する。後に曹操の傘下に入り、共に呂布を討ったが、やがて離反して袁紹(冀州)を頼る。(曹操に警戒されたため。)
 その後、袁紹の指令で別働隊となり、曹操をおびやかす。しかし、結局袁紹の元を去り、劉表(荊州)の傘下に入った。(袁紹陣営には、内部分裂の傾向があり、劉備は恐らくそれを看破。)


 劉備は、常に状況に逆らわず、柔軟に行動した。基本的にリアリスト(現実主義者)。どんなときも、巧みに事態を打開する。(これも、人望の一因と思われる。)
 劉備は、したたかな性格で、応変に態度を変える。その点は、当時の世でも認識されていた。
 しかし、劉備の元を離れた者は少ない。劉備は恐らく、本当に信頼関係のある者に対しては、決して義をおろそかにせず。(劉備への世評も、悪化することはずっとなく、常に良好であった。)


 劉備は荊州時代、名家出身の才人・諸葛亮を配下に加える。(字(あざな)は孔明。)これは、「戦略ブレーン」「優秀な官僚」「名士層への人脈」を、一度に得たことを意味する。

 赤壁戦ののち、劉備は荊州で独立。勢力を固めると、関羽に荊州を守らせ、自ら益州の攻略に向かう。益州は情勢が安定せず、それに付け込んだ形だが、長期戦を強いられる。やがて劉璋(益州牧)を降伏させ、荊州に移住させた。




劉備と儒教
 劉備は一応、漢の王室の血筋。それを前面に出し、漢王朝の再興を掲げ、曹操に対抗する。

 漢王朝は、儒教と一体。劉備の政治形態も、自ずと儒教寄りになる。自身、青年期に、盧植から儒学を学んでいる。(但し、当時は勤勉ではなかったらしい。)徐州時代には、鄭玄(ていげん)や陳紀の元を出入りし、儒学と政治の関わりを学んだ。(鄭玄は取り分け、高名な学者。周の全盛期(礼と徳の時代)を理想とする。)

 劉備自身は、さほど儒教的ではない。品行を整えたり、身を慎むことはしない。儒教の思想を好みはしたが、恐らく、部分的に取り入れる感じだった。


 劉備が持つ人徳とは、そもそもどのようなものだったのか。
 劉備は基本的に、度量が広い人物。漢人における理想の英雄像の一つ、とされる。その特徴とは、自我をあまり表に出さず、常に自然体で人や物事と関わる。言語はむやみに用いず、世界の本質を直接捉える。そして内には、確固とした意志を備える。

 中国は古来、建前の社会といわれるが、道教(自然の原理を尊ぶ)を生み出した国でもある。本来、真理を追求、憧憬する心性が強い。結果、建前を超越できる人物や、余分な自我を持たない者(ある種茫洋とした者)が人気を得る。(自我が強い者は自ずと言語的、論理的になり、時に本質から乖離する。)




劉備と儒教2
 劉備は儒教的というより、恐らく道教的だったが、儒教と道教の間には親和性もある。儒教はまず、根源的な摂理を追求し、その点は道教と変わらない。
 しかし、儒教はそこから、行動の枠組を様々に構築。それは時に、政治、社会に規範を与えるために行われる。その場合、規範は建前でもあるのだが、本来、(人間に関する)摂理と表裏一体である。

 政治を行うには、建前はある程度必要になる。殊に古代中国は争いが多く、抑止力となる建前の存在は重要だった。建前とは一応の理想であり、本来、本質に沿っている必要がある。儒学は、本質からいかに建前を生み出すか、その手立てを提供できる。(人間の本質の内、善なる面のみ抽出し、それを形式化する。)

 儒学は上手く活用する限り、現実的、有用な政治学となる。劉備は昔は読書を好まなかったが、為政者となってからは、次第に儒学に目を向けた。諸葛亮とも話が合っただろう。
 また、子の劉禅に対し、「礼記」(らいき)を読むことを勧めている。礼記は、経書(公式の儒学書)の一つ。




益州統治
 劉備政権は、荊州人士が支えており、彼等は基本的に儒者。(諸葛亮をその中心とする。)

 一方、益州には土着の豪族がおり、各地に根を張っている。また、劉焉の時代に東から来た集団がおり、彼等は「東州派閥」と呼ばれている。(なお、劉焉は劉璋の父。)両者は劉備が来る前から、絶えず対立。後者が優位で、劉璋政権を牛耳っていた。
 東州派閥、土豪は、いずれも実利を重視。劉備政権に対し、既得権益の保護、拡張を望んでいる。

 また、益州には、独特の学問「蜀学」があった。儒学の一派だが、天文や占い、形而上学から成る。益州の知識人たちは、荊州人士と学閥を異にしている。


 劉備は益州統治に当たり、多様なグループをまとめる必要があり、慎重に人事を行った。
 まず、荊州人士を主軸に据える。その上で、益州の多様な人々を、バランスよく政権に取り込む。東州派閥を、土豪より少し優遇したが、格差は減らした。

 劉備はまた、諸葛亮に「蜀科」(刑法)を制定させる。諸葛亮は公平、厳格な法を定めることで、徳治の実現を志向。これは自ずと、諸グループの統一にもつながる。劉備の人事能力に、諸葛亮の法務能力が合わさり、政局は次第に安定した。




人事能力
 劉備は基本的に、人を見る目があった。例えば、諸葛亮は常々、馬謖(ばしょく)という人物を重用。劉備はそれを注意する。「馬謖は理屈が先行するから、重用してはいけない。」後に馬謖は司令官となり、魏軍に敗北する。(馬謖はあくまで、戦略家として優秀だった。)

 劉備は、理屈では現実を捉えない。ただ現実に即して行動し、その中で人心や事の本質が見えてくる。人事能力は高かったに違いない。まず、適材を見分けることに長ける。また、人々の不満を解消し、上手く調和させるという、調整能力も優れていただろう。劉備陣営において、不満分子の存在は、(当初から)ほぼ記されない。


 劉備は、李厳という人物を重用する。李厳は荊州出身者で、初め劉表に仕官。劉璋時代に益州に赴き、その後劉備に帰服した。
 李厳は、荊州人士、東州派閥、土着の益州人、いずれとも距離がある。そのため、中継的な立場になり得た。
 また、この李厳は、実務での活躍が多い。馬謖に比べ、性格は現実主義。


 なお、劉備と諸葛亮の人事方針は、必ずしも同じではない。この点にも、着目する必要がある。
 諸葛亮は、荊州人士を率い、理想の政治を実現させたい。また、益州の知識人も意識して取り立て、己の派閥に組み込もうとした。
 諸葛亮は基本的に、一部のエリート(優れた教養人)による管理的な統治を目指している。一方、劉備はもっと幅広く、柔軟な人事を行おうとする。両者の間には、本来、相容れない部分があった。また、劉備は当然、諸葛亮と荊州人士の力が強まり、政治が自分の手を離れるのを警戒した筈。
 劉備の人事は、時に、対諸葛亮を考えて行われたとされる。




劉備と諸葛亮
 この頃、関羽が荊州で魏軍と対峙。一時は優勢に戦局を進め、曹操に遷都まで考えさせる。しかし、呉が裏切って魏に味方し、関羽を討伐して殺害する。
 その後、魏では曹操が死去。跡を継いだ曹丕(そうひ)は漢王朝を終わらせ、新たに魏王朝を開いた。

 翌年、劉備は蜀王朝を開き、漢の正統な後継を称する。諸葛亮を丞相に任命。
 国内のことを整えてのち、大挙して呉に遠征する。知将の陸遜相手に、しばらく攻防したが、やがて火攻めで敗れる。

 諸葛亮は、この呉遠征に反対だった。しかし、劉備は断行した。(諸葛亮は益州に残る。)関羽のための復讐、そして領土的野心。諸葛亮には分からない、強い思いが色々あったのだろう。
 諸葛亮は必ずしも、劉備の腹心という訳ではなかった。益州時代の劉備は、途中から、諸葛亮より法正(非荊州派閥)を相談相手にしていた形跡がある。


 劉備はその後、白帝城に滞在。発病してのち、諸葛亮、李厳を呼び、子の劉禅の補佐を頼む。
 その際、劉備は諸葛亮にこう言う。「もし劉禅が器でなかったら、君が国を奪ってくれ。」この言葉は、勿論本心ではないだろうが、(諸葛亮に対し)複雑な思いがあったことが窺える。しかし同時に、「劉備にとって、諸葛亮の存在はそれだけ大きい」ということも意味している。(特別な評価をしているからこそ、こういう発言が出てくる。)諸葛亮はそれを感じ取り、改めて忠義を誓った。

 劉備と諸葛亮の間には、常に万全の信頼があった訳ではない。ある程度の相克は存在していた。それを抱えながらも、両者は総じて、上手くやってきた。
 諸葛亮は後に、「出師の表」の中で、劉備への諸々の感謝を述べている。





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