トップページ三国志総合事典(正史)

ソウソウ モウトク
曹操 孟徳

 魏国(漢帝国の一部)の王。建国者。子の曹丕(そうひ)が魏帝国を設立。



人物像
 「三国志演義」では、劉備の天敵ということで、悪役寄りに設定されている。史実においては、どうだったのだろうか。

 曹操の政治の特徴として、まず、儒教体制の打破が挙げられる。儒教は基本的に、人間世界の在り方を綿密に定め、品行を重視する。結果、物事を過度に束縛することもある。
 当時、儒教は形骸化が進み、現状に沿わなくなっていた。救民に十分は用立たず、閉塞感も生じさせていた。そこで曹操は、儒教社会からの離脱を志向。品行に問題がある者でも、才があれば積極的に起用した。

 曹操は人材を愛したという。そのことを詩にも詠んでいる。ただの能力主義ではない。才を通して、人それぞれの本分を見た。結果、曹操に忠誠を誓っていた者は多い。


 曹操は勿論、家柄にもこだわらない。自身も家柄には、それほど恵まれていない。父の曹嵩は、高級官僚ではあったが、宦官曹騰の養子でもある。だから、曹操は宦官の孫ということになる。
 儒教社会は、基本的に家系を問題にする。曹操はその出自のため、時々理不尽な扱いを受けただろう。(これも、恐らく、儒教社会への反発の要因。)




人物像2
 曹操は、物事の本質を重視し、表面を飾らない。曹操はかつて遊侠を好み、日々奔放に振る舞った。基本的に自由な気質を持つ。
 また、仕官後は一転して法を重んじ、信賞必罰を徹底させた。それが人を動かすための、最も合理的な手段だからであり、形にこだわるタイプではない。

 曹操は法家であり、また、軍略に長けていたが、詩才にも定評あり。曹操の詩の手法は、形式に囚われず、心情をそのまま吐露するというもの。曹操は基本的に、人情をよく解する。理と情を、共に備えた人物だった。


 勿論、曹操も、長所ばかりではない。劉備に比べ、大らかさは欠け、意に沿わない部下に厳しい。また、父曹嵩が陶謙(徐州の長官)の部下に殺害されると、感情のままに徐州の人々を殺戮する。苛烈な面もかなり持っていた。
 「三国志演義」でしばしば悪人扱いされるのは、劉備の敵だからだけではない。




活動
 曹操は、早い内に帝を奉じ、大義名分を得る。(重臣の荀彧(じゅんいく)の勧めによる。)また、漢王朝は儒教と一体。自ずと、各地の儒家名士(政治的人脈を持つ)が味方に付く。(荀彧も儒家名士。)
 曹操は基本的に法家だが、十分勢力を固めるまでは、現実路線、妥協路線を取った。


 曹操は帝を奉じたあと、まず許(洛陽の東)への遷都を行い、そこを自らの本拠とする。漢王朝の名を掲げ、従わない勢力を順に討伐する。曹操は大きな軍才を持ち、配下にも多くの人材がいた。
 また、屯田制を実施したことで、備蓄が充実している。曹操の屯田制は「民屯」と呼ばれるもので、募集民が各地の荒地を耕作。当時流民の数が多く、彼等が主な構成員となっていた。(なお、「軍屯」は辺境で兵が耕作。)

 この頃、河北には、袁紹(名門貴族)が割拠する。袁紹は豪族を優遇し、見返りに援助を得ることで、備蓄を確保していた。袁紹の家臣団の中心は、豪族出身の儒家名士。(曹操も、儒家名士を相応に尊重したが、豪族の権勢は抑制。)


 曹操はやがて、袁紹と対決。袁紹は大勢力だったが、家臣団が互いに張り合い、統制が十分取れない。曹操は、それを衝いて勝利した(官渡の戦い)。
 その四年後、袁氏の本拠地の鄴(ぎょう)県を制圧。(鄴県は、冀州の魏郡所属。)まもなく、冀州牧となり、この鄴が自身の本拠地となる。(以後、本拠地の変更はなし。)

 曹操は後に、江南(長江の南)の孫権と対する。しかし、水戦には慣れておらず、名将周瑜の前に敗北した(赤壁の戦い)。
 曹操は本拠地に戻り、改めて基盤を固める。




活動2
 曹操は帝を立てる姿勢を、表面上は崩さない。やがて、「公」の爵位を帝から貰い、漢帝国の中に「魏国」を建てる。(後に「王」に昇格。)


 後漢の地方行政は、「郡国制」を取る。つまり、全土を「郡」か「国」のいずれかに分ける。(また、郡・国の上に州を置く。)

 「国」は行政単位として、「郡」と同じであることが多い。しかし、魏国の場合、下に十の郡が置かれた。(また、魏国は冀州に属するが、曹操は冀州の牧を兼ねていた。)
 後漢時代の「国」は、通常小規模で、本来強くなり得ない。しかし、曹操は王朝を実質支配。郡国制を自在に利用し、自身が望む形に「国」を作り、そこに独自の体制を築いた。
 なお、「国」の特質は、支配者が世襲することと、官職が朝廷と類似すること。そのため、王朝のような振舞いが可能となる。  


 儒家名士らは勿論、曹操のやり方に対し、好感は持っていなかった。曹操は漢王朝を復興させたが、実質的には、漢や儒教を軽視している。儒家名士らは曹操に協力しつつ、水面下で派閥の強化に努め、徐々に基盤を固めていた。

 そして、曹丕の時代になると、陳羣(ちんぐん)が「九品官人法」(官僚登用制度)を定める。この制度では、郡ごとに置かれた「中正官」が、その地の優秀な儒者を抽出。九段階の評価を与え、朝廷に推挙する。
 従来の「郷挙里選」と理念は同じで、より強力な制度。(但し、郷挙里選ほど、品行にはこだわらず。)




個性、精神性
 曹操はあらゆる方面に関心を抱き、それぞれに非凡な才能を発揮し、絶えず精力的に活動した。物事に対する感覚が鋭く、個人的な能力がずば抜けていた。政事や武事は勿論、芸術(詩や音楽)にも通達する。才という点では、蜀の劉備や、呉の孫権が及ぶところではなかった。

 しかし、曹操も恐らく、完全無欠だった訳ではない。大局観、先見性には隙もあったと思われる。実際、取るべき方針を時々見失い、荀彧(じゅんいく)ら参謀から諫言されている。


 荀彧は卓越した知性、品性を備えており、常に冷静に人心を見極め、物事を総合的に判断できる。
 例えば、曹操が徐州(劉備領)への遠征を考えたとき、荀彧はそれを制止。地盤を固めることを説き、そのための方策を提示した。また、帝を奉じることを勧めたのも、この荀彧である。曹操は用兵では右に出る者がいなかったが、全体の戦略を定める能力は、恐らく荀彧に及ばず。
 また、荀彧には、政治的なバランス感覚があり、その点でも重要な存在だった。


 他に夏侯惇という人物がおり、曹操の心の支えになっていた。曹操の親族に当たり、ひたすら誠実に事に当たる。
 曹操は旗揚げ以来、この夏侯惇と、長らく苦労を共にしてきた。曹操は軍や組織を二分する際、夏侯惇に一方を任せることがあった。人格、才腕共に信頼できる人物だったのだろう。このような部下がいる安心感は、曹操にとって不可欠なものだったに違いない。夏侯惇に対しては、いつも特別の親愛を注いだという。曹操は決して、超然としたタイプではなかった。




荀彧との相克
 荀彧は潁川(えいせん)の名家の出身。(潁川は豫州の郡で、洛陽に近い。)荀彧は基本的に、儒家の名士であり、大きな人脈を持っていた。
 一方、曹操は名士層から協力を受けつつ、政治が儒教に染まるのを嫌う。家柄や学閥が物を言う体制より、法による中央集権を志向している。(曹操自身、儒学の素養はあり、儒教の根本精神(仁、孝など)は相応に重視。しかし、儒教政治は、破綻の可能性を常に孕む。)
 曹操と荀彧の間には、当然、一筋縄でいかない関係が存在した。


 荀彧は勿論、現実的な政治家で、柔軟な思考の持ち主。その点では曹操と合う。法治の有効性を認識し、曹操の為政を助けてきた。
 しかし、儒家としての理想は、常に抱いている。荀彧は儒教国家・漢を尊重。もしくは、それを引き継ぐ国家体制を想定していた。

 曹操は次第に、荀彧を疎んじる。その結果、荀彧は悶死したとも、自殺したともいわれる。真相は、よく分かっていない。
 ともかく、曹操はそれまで長い間、荀彧を頼りにしてきた。複雑な思いがあったことは間違いない。




跡目問題
 曹操は後年には、跡継ぎ選びで苦悩する。三子の曹丕、五子の曹植が主な候補だった。(曹丕は正室卞(べん)氏の長子。卞氏の次子は曹彰で、三子が曹植。)
 曹丕は文武に長け、冷徹さを備え、権力欲もあった。一方、曹植は天才的文才を持ち、個人主義者でもあり、自由な生き方を好んだ。

 また、曹丕は現実主義。非情なところもあったが、己を律することを知り、人との駆け引きにも長ける。総じて見ると、曹丕の方が為政者に向いていそうだが、曹操は長らく曹植に目をかけた。

 曹植に国を任せるというのは、賭けに等しいと思われる。文才があるということは勿論、言語的思考力があるということであり、当然行政の能力も持ち得ただろう。しかし曹植の場合、それ以上に芸術的感性が強すぎる。そういう人物が一国を支配したら、どういうことになるか予測が付かない。
 また、年長者の曹丕を排したら、その恨みは軽くない。曹丕が覇気に欠けた人物ならともかく、後継者にふさわしいと自負しており、実際皆が認める素質を有している。


 ある説によると、曹植贔屓の背後には、儒教文化の抑制という目的があったという。即ち、曹植の文学的才能は、儒教に代わる文化を自ずと創出する。
 曹操の中に、そういう期待は、間違いなく存在したと思われる。曹植の才は飛び抜けていた。また、曹植の自由気ままな性格も、儒教と反する部分がある。(一方、曹丕においては理が情を上回る。儒教(理屈尽くめの宗教)とは、結構相性がいい。)

 曹操は例えリスクを冒してでも、曹植が新しい世界を作り出す可能性に賭けたかった。革新志向が強い曹操は、その夢をなかなか捨てられなかった。ただの好き嫌いによる贔屓ではないから、相当苦悩したに違いない。しかし結局、曹丕を跡継ぎにする決断をする。それは、無難で妥当な選択だったと思われる。




対儒教
 後漢は、儒者たちが活躍した時代。彼等は官僚や学者として、当時の政治・文化を絶えず支えた。
 儒者は天の摂理を追求し、それに則した節度(礼制)を定める。彼等は精神主義者であり、世の中から貪欲、横暴を排する。
 かつての後漢帝国の繁栄は、儒者が中心となって現出させた。その功績は、大変大きい。

 しかし、礼制は伝統主義、家柄主義と切り離せない。この二つは、時に排他性を生み出す。
 また、本来貪欲な者が、家柄と表面的品行をもって、「郷挙里選」で推挙を受ける場合あり。結果、豪族の私権が、過度に増大した。


 曹操は、法治の方針を掲げ、豪族を抑制する。これは、礼制偏重の防止と、中央集権のため。
 また、政治力を持つ儒者の多くは、豪族としての権勢を拠り所とする。法治の徹底は、権力構造的にも、儒家の抑制に繋がった。
 結果、曹操陣営には、多様な人材が集まる。また、一元的な支配体系が築かれる。


 しかし、曹丕の時代になると、再び儒家勢力が力を持つ。彼等に有利な人事制度(九品官人法)が制定され、魏王朝の基礎となる。曹操の法治の精神は、勿論受け継がれていたが、基本方針は変容した。




主義や思想
 曹操は、人それぞれの個性、才に関心を持つ。また、信賞必罰を基本方針とする。曹操は恐らく、「公平な法の下、個人が自由に個性を発揮できる世」を目指していた。個人はただ、法を介して社会と関わる。それは、近代的、西洋的な法概念と共通する。(従来の漢人社会では、基本的に、法は「官が民を統御する」ためのもの。)
 しかし、個人の主体性という観念は、この時代未確立だった。世のしきたりとは別に、ただ自分の理性で事を判断する、という習慣が人々には欠けていた。曹操の政治方針は、世の中全体に、強くは浸透せず。(曹操は当時において、才覚だけでなく、精神性も際立っていた。)

 また、古代の漢人はしばしば、人を超えた摂理に関心を持つ。その上で、規範、建前を立てることを重んじる。古代の漢人社会では、個人は得てして、摂理や規範の中に位置付けられる。(そして、こういう自己認識は、調和を重んじる農村社会に適合。)また、儒教は摂理の認識、規範の構築から成り、漢人の気質に本来合っていた。


 勿論、曹操が当時の社会・文化を革新させたことは、疑いのない事実。曹操の活動は、豪族中心の権力構造を変え、更に、凝り固まった礼教世界を打破した。曹操は、全く新しい時代を創造した訳ではないが、世の中の変革に成功し、時代の再編のきっかけを作った。

 なお、儒教は基本的に、限られたエリート(志ある知識人)による統治を説く。だから多くの知識人は、幅広い人材を用いる曹操方式より、儒教を基軸とした体制を望んだ。また、世の中に一応の秩序が戻れば、現状を打破する奇才より、現状を維持し安定させる知性・人格が求められる。(儒学を学んだ知識人は、実際その要請に応えられた。)

 しかし、曹操の自在な人材起用は、時代の空気を変えた。そして、曹操に仕えた儒家名士らも、曹操から思想的影響を受けたという。「九品官人法」は儒家思想に沿った制度だが、後漢の「郷挙里選」に比べ、柔軟に個性、才を評価したとされる。(この制度は司馬氏の時代、家柄主義が進むのだが、当初の理念とは乖離がある。)





トップページ三国志総合事典(正史)