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シュウユ コウキン
周瑜 公瑾

 孫呉政権の重鎮。孫策、孫権に仕える。



実像
 物語「三国志演義」では、謀略家、兵法家として描かれる。冷静な反面、気位が高い。諸葛亮を目の上のタンコブとし、しきりに殺害を企てる。総じて、偏狭な心性を感じさせる。
 一方、史実での人物像は異なり、広い度量を備えた人物。人格者として知られていた。そもそも、諸葛亮との接点は薄い。史実では、殺害など企てていない。

 史実の周瑜が長けていたのは、まず、組織を統括する能力。(サブリーダー・タイプ。)人心の掌握、決断力、情報の管轄など。孫権の時代になると、まだ経験の浅い主君を支え、体制の確立と運用に努めた。
 また、もう一つの本分は、戦略計画の構築。即ち、多大な情報を整理し、綿密に作戦を組み立てる能力。二つの大戦(赤壁戦、南郡戦)を制し、呉を飛躍させた。

 基本的には、恐らく、奇略を使うタイプではなかった。その類の記述は、あまり見当たらない。周瑜は、正攻法で物事に取り組むタイプ。その点では、(史実の)諸葛亮と共通する。

 また、周瑜は儒家官僚の家系だが、儒教を重んじた形跡はあまりない。この点において、諸葛亮と違いがあり、自由、柔軟な気質を持つ。(諸葛亮は、人物像としては陸遜(呉後期の重鎮)に近いだろう。)




孫家に尽力
 周瑜は故郷時代、孫策と親交を結ぶ。その後、孫策は袁術の配下に入り、やがて江東に出征する。出発後まもなく、周瑜も参加。
 周瑜はその際、軍勢、兵糧、船を手配する。それらの管理も、しっかり行っていたのだろう。孫策はその後、右に左に転戦し、連勝を重ねる。周瑜も、常にこれに随行していた。孫策の軍は、そこそこの大軍。これを統括するために、周瑜の力は不可欠だったに違いない。

 やがて、孫策は呉郡を制圧し、袁術から独立する。周瑜は、要地の牛渚(ぎゅうしょ)に駐在し、一帯を安定させる。また、孫策が外征する際、常に付き従い、勝利に貢献した。
 しばらくすると、孫策は刺客に殺害され、弟の孫権が跡を継ぐ。


 孫権は当時、位の上では漢の一将軍。そして、まだ若年。部下達は、どこまで従順になるべきか、態度を決めかねていた。
 そこで周瑜は率先し、孫権に臣下の礼を取る。家柄・実力のある周瑜が、そのような態度を取ったことで、皆が孫権に恭順するようになる。周瑜はその後も、張昭(呉の文臣)と共に孫権を補佐し、諸事を取り仕切った。

 勿論、孫権を立てることで、自らの立場を明確にした面もある。しっかり政治体制を整え、同時に、己が腕を振るいやすい環境を作った。
 孫権への尽力は、周瑜自身の野心と表裏一体。しかし、忠節心も、恐らく偽りではない。(もし野心のみなら、人々から信望は得られない。)




対曹操
 曹操は河北を制すると、続いて大軍で南下。孫権の領土(江東)に接近する。

 張昭を初め、帰順を主張する意見が多かった。もし帰順すれば、動乱の世はひとまず収まる。(曹操が江東を併呑すれば、天下の大勢は概ね定まる。)
 張昭らの考えは、基本的には、真っ当だったと思われる。しかし周瑜は、盟友孫策と共に、苦労して江東を平定した。安々と献上したくはない。
 また、曹操は法至上主義だが、江東の自由な気風と合わない。更に、曹操には苛烈、独善的な面があった。当時の世には、反曹操の気運が、ある程度存在していた。(曹操が荊州に進出し、劉備が逃亡した際、多くの荊州人が劉備に随行。)

 周瑜は軍略を練り、勝算を弾き出し、孫権の説得にかかる。魯粛(周瑜と並ぶ異才)も、同じく抗戦を主張。また、劉備が軍を率いて到来し、孫権に共闘を申し出る。孫権は、曹操迎撃を決意。
 周瑜は三万の水軍を授けられ、それらを的確に配置し、万全の迎撃態勢を整える。曹操はこれを突破できず、撤退を決めた。(有名な「赤壁の戦い」。劉備も助力。)


 曹操はその後、南郡(荊州)に軍を残し、国境地帯の拠点とする。周瑜は南郡を攻略し、長期戦を制して勝利する。その後、太守に任じられ、南郡に駐在した。
 続いて益州攻略、天下平定の戦略を練り、孫権の同意も得る。しかし、準備中、志半ばで病死する。
 その後、魯粛が諸事をまとめ、益州は劉備が奪取。魯粛死後は、呂蒙が孫権を補佐した。

 なお、赤壁戦ののち、動乱の時代は長引いた。天下三分後は、一定の秩序が存在していたが、全土が統一されるのは更に先(魏を継いだ晋による)。この事態は、周瑜や魯粛の想定外だったと思われる。(彼等の死後、呉は方針を転換し、蜀と正面切って争った。これにより、時代の流れが変化。)
 一方、孫権が曹操に帰服していた場合も、その後天下がすんなり治まったとは限らない。




人格
 曹操も常々、周瑜を高く評価していたという。あるとき、曹操は配下の蒋幹を派遣し、周瑜を味方に引き入れようとする。(時期は不詳。)

 周瑜はまず、存分に蒋幹を歓待する。最後に、孫権への忠義を述べ、意思をはっきり示す。蒋幹は自然と感服し、あえて説得をしなかった。(演義においては、周瑜が蒋幹に偽情報を掴ませ、曹操を欺く話が描かれる。これは、史実ではない。)蒋幹は帰還後、しきりに周瑜を称賛。


 また、周瑜は名家の出身だったが、それを鼻にかけた様子がない。野心と自負心を持つ一方、身を慎むことを忘れない。品性が優れた人物だったと思われる。音楽に精通するなど感性も鋭い。
 なお、演義では容姿が強調されるが、史書には「成長するにつれ、立派な容貌を備えた」という一文のみ。あと、程普(呉の重鎮)は、「周瑜殿と話していると、美酒に酔ったような感覚になる」と言っている。話の上手さだけでなく、気品のある雰囲気を持っていたのだろう。(なお、程普は当初、周瑜を疎んじていた。しかし、周瑜の鷹揚な態度に心服したという。)

 周瑜に関し、基本的に悪い記述は見当たらない。才覚だけでなく、人間力も相当優れていた。




周瑜と陸遜
 後期の呉では、陸遜という人物が台頭する。(周瑜は既に死去。)軍事・政治双方に長け、長らく国事を担って活躍。孫権から大きな信頼を得る。周瑜に匹敵する傑物だった。
 孫権はやがて、跡継ぎ問題で惑い、宮廷内の抗争が泥沼化する。陸遜は孫権に書簡を送り、懸命に道理(正室の子・側室の子の区別など)を述べ、諫言(かんげん)する。しかし、孫権は怒り、以後陸遜を粗略に扱った。
 何故こうなったのか。また、陸遜ではなく周瑜なら、孫権を説得できただろうか。

 当時の孫権は老境で、往年の英明さを失っていた、とされる。しかし恐らく、それだけが原因ではない。まず、陸遜は、正統派の儒士。常々道理を重んじ、「~すべき」という観念に則する。一方、孫権は感情型の人間であり、情による融和を重んじている。取り分け跡継ぎ選びは、情が最も絡む問題の一つ。どんなに道理を説かれても、「そんなことは分かってる、問題はそんなことじゃない」という感じだったのだろう。

 呉は元来、国柄として、人の和を基本としていた。しかしこの頃になると、旧来の家臣が次々死去し、名士層(情より理を重んじる)が台頭している。しかも彼等は、大いに地盤と人脈を有しており、(意図するしないに関わらず)君主の権力をおびやかす。そして、陸遜は、名士の中の代表的人物だった。(なお、孫権自身、儒学の素養は持つ。しかし、儒家名士らとは、基本的に溝あり。)


 周瑜は、名家の出でありながら、自由な気風を有する。大らかという評判があり、その点陸遜とちょっと違う。基本的に、人の感情を慮り、柔軟な言動を取れる。陸遜は、立派な人格を有していたが、人徳は周瑜が少し優ると思われる。

 後年の孫権は、自分を取り巻く環境の変化により、徐々に精神のゆとりを失った。もし周瑜が存命だったら、色々違っていたと思われる。周瑜なら、跡目問題に関しても、上手く説得できたかも知れない。





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