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エンタン ケンシ
袁譚 顕思
  
~屈折した性格の公子~

 袁紹の長子。青州刺史に任じられ、好き勝手に振舞う。跡継ぎになることはできず、代わりに跡を継いだ袁尚(袁紹の三子)と争う。後に、曹操の前に敗死する。



青州時代
・袁紹の長子。青州刺史に任じられ、平原県に着任する。
・州内には田楷(公孫瓉が任じた刺史)、孔融(北海国の相)らがおり、実質的な領地は狭い。そこで、袁譚は彼等を討伐し、いずれも敗走させる。


・当時一帯は無法状態で、民は袁譚を歓迎する。しかし、袁譚は貪欲に振舞い、身内の略奪行為も放置する。また、部下達に兵の徴用を命じたが、彼等は賄賂を出した者を見逃す。貧しい者達は山野に逃亡したが、それを鳥獣を狩るかのように探索。袁譚は一方で士人達を敬い、度々招聘するも、誰も応じようとしない。また、豪族から税や兵をほぼ徴用できず。(以上、「九州春秋」の記事。「九州春秋」の文章は特徴的で、孔融、焦和の失政も書き立てており、恐らく誇張の傾向がある。)




官渡戦・跡目問題
・袁紹の命令を受け、劉備を迎え入れる。袁譚は前々から劉備を敬愛しており、丁重に迎え入れる。(なお、袁譚はかつて、劉備から茂才(官僚の候補枠)に推挙されている。)


・袁紹が曹操と開戦する。袁譚はこれに随行。
・袁紹は官渡に進出し、一時優勢だったが、結局敗れる。本拠地の鄴(ぎょう)県に撤退。やがて病死し、三子袁尚が跡を継ぐ。当時、「長子の袁譚が跡を継ぐべき」という声が多かったという(「後漢書」)。しかし、母劉氏と審配・逢紀が袁尚を強く後押し。(一方、袁譚には郭図(かくと)と辛評が付いていた。)
・「後漢書」によると、「審配と逢紀は、驕慢、貪欲な性格。袁譚は、常々これを嫌っていた。」(これを見る限り、袁譚は本来実直な性格。)




対曹操
・車騎将軍を自称し、黎陽県に駐屯する。やがて、袁尚が援軍に来る。

・袁譚、袁尚は黎陽城外に駐屯し、曹操と対する。半年の攻防ののち、敗れて篭城し、曹操は包囲にかかる。袁譚らは鄴まで退き、籠城する。曹操はこれを攻撃したが、戦況は膠着する。(このように、曹操は相当苦戦している。袁紹は死去したが、二人の子(袁譚・袁尚)も十分将才があり、兵も多かった。)
・郭嘉が曹操に献策。「袁譚、袁尚は止むなく協力しているだけ。我々が去れば争いを始める。」かくて、曹操はあえて撤退する。

・曹操撤退後、袁譚は追撃を主張したが、袁尚は却下。(良策だったかどうかは不明。)




対袁尚
・郭図が跡目問題を蒸し返し、袁譚をそそのかす。袁譚は、袁尚への反乱に踏み切る。軍を率いて出奔し、諸県を荒らし回る。
・部下達に言う。「鄴には老母がいる。捕らえる際、どんなに乱暴に扱っても構わない。但し、首と手足はつながったままにしとけ。」その後、袁尚の迎撃を受け、南皮県(冀州)に敗走する。そこでも敗れ、平原県(青州)に駐屯。
・袁譚の将が反乱し、青州の各地がこれに呼応する。袁譚は言う。「私の不徳のせいだろうか。」配下の王修は言う。「東莱太守の管統は裏切りません。」やがて、管統は来援。

・再び、袁尚を攻撃する。袁尚側の異民族を寝返らせ、館陶県(魏郡)で袁尚を大敗させる。その後執拗に追撃したが、袁尚は伏兵を用いて猛反撃し、袁譚は逆に追い詰められる。(これらは、「三国志演義」では省かれている。史実では、両者の争いは、演義で描かれる以上に泥沼化していた。)
平原城に立て篭もる。袁尚がこれを包囲。




帰服と離反
・郭図の進言に従い、曹操に使者を出し、帰服を申し入れる。(表面的なもの。機を見て独自に動く算段。)曹操は同意し、袁尚はほどなく撤退。
・曹操配下の呂曠、呂翔に将軍の印綬を送り、味方に付けようとする。(いずれも、元は袁尚の配下。)呂曠らは、これを曹操に報告。

・審配が袁譚に手紙を送り、過去の行いを責め、袁尚との協力を説く。袁譚は手紙を読むと、城壁の上に登り、後悔の涙を流す。しかし、郭図の方針に逆らえず、抗争は続行される。(郭図は、一大派閥を統率。袁紹の時代から権勢あり。)


北方の四郡を奪還する。(この時点で、はっきり曹操に反逆。)一方、袁尚は曹操に敗れ、中山国に逃亡する。袁譚はこれを撃破する。その後、南皮県に駐屯。
・曹操に攻勢をかけ、一時劣勢に追い込む。しかし、結局敗れ、討死する。

・曹丕の記した「典論」には、「袁譚は恵なり」と記される。「恵」は孔子の言う五つの仁の一つ。




袁紹 郭図 審配


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