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演義での活躍を要約します。能力考察(三国志) 能力考察(後漢)
劉備 曹操 孫堅 袁紹 袁術
董卓 呂布 劉表 劉璋 その他
リュウビ ゲントク
仁徳をもって人望を獲得し、曹操に対抗する。軍師孔明を迎えてのち、益州を制圧し、蜀王朝を開く。
その後、関羽の復讐のため、呉への遠征を断行。善戦するも、火攻めによって敗れる。まもなく病床に伏し、子の劉禅を孔明に託す。
※正史では、度量の広さで知られた。仁徳とは少し違うが、やはり大きな人望あり。また、演義に比べ、現実主義者。応変な行動に長けていた。詳細
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ショカツリョウ コウメイ
劉備が益州を平定すると、諸葛亮は法を制定。更に、漢中防衛戦に参加し、曹操軍を翻弄する。劉備の死後、魏への北伐を開始。司馬懿と名勝負を繰り広げ、しばしば一枚上を行く。
※正史では大政治家で、名行政官。正統派の儒家でもあり、徳治の手段として法を活用。一方、兵法能力も高かったが、飛び抜けてはいなかった。詳細
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ホウトウ シゲン
劉備には、風貌で軽んじられ、地方の県の長官とされる。あえて政務を怠り、あるとき一気に処理。才を認められ、軍師となって益州に随行し、絶えず貢献する。やがて、孔明への対抗心から、功を焦る。間道を行軍中、矢を浴びて討死する。
※正史でも、孔明に次ぐ存在。また、人物評定を好み、多くの人士と交流があった。赤壁での活躍はフィクション。詳細
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ジョショ ゲンチョク
新野の町で劉備と出会い、軍師として仕える。曹仁の敷いた「八門金鎖の陣」を打破。その後、曹操が徐庶の母を人質とし、徐庶はやむなく曹操に降る。劉備の元を去る前に、孔明を推薦。
赤壁戦の際、龐統の「連環の計」を見抜くも、曹操には言わない。願い出て西方の守備に赴き、難を逃れる。
※正史では、軍事での活躍はない。曹操に仕えてのち、官僚として出世。また、孔明からの評価は高く、人間的にも信頼されていた。詳細
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カンウ ウンチョウ
一時曹操に投降し、その世話を受ける。敵の猛将顔良、文醜を倒し恩を返すと、五関を次々突破し、劉備の元に戻る。劉備が益州に向かうと、あとに残って荊州を守り、魏軍相手に力戦。しかし、呉の裏切りで敗死する。
※正史でも、人物像はそう変わらない。記述は多くないが、蜀一の名将として知られ、義にも厚かった。しかし、傲慢が過ぎたといわれる。詳細
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チョウヒ ヨクトク
呉軍が関羽を殺害すると、仇討ちの準備を急ぐ。しかし、乱暴に振舞い、部下に寝首をかかれる。
※正史でも、関羽と並ぶ武将。演義同様、粗暴な性格。但し、酒好きの記述はなし。(なお、正史での字(あざな)は「益徳」。)詳細
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チョウウン シリュウ
後に劉備に仕え、汝南戦に参加。許褚と互角に渡り合い、張郃を打ち負かす。長坂では、曹操の将を次々倒し、劉備の幼子(劉禅)を救う。桂陽平定時は、終始冷静さを見せる。漢中防衛でも活躍。寡勢で陣を守り、わざと隙を見せて惑わし、奇襲して撃退する。劉備から「全身肝」と評される。
劉備死後は、孔明の北伐に加わる。あるとき軽率に動き、敵の策にはまるも、武勇は健在。
※正史の伝は記述が少ないが、人物像は基本的に同じ。劉備から信頼され、親衛隊長を務め、やがて将軍に昇格した。また、「趙雲別伝」という家伝あり。詳細
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バチョウ モウキ
後に、再び曹操の領地に侵攻し、城を攻撃する。敵将韋康は投降したが、一族共々殺害する。その結果、楊阜(韋康の参謀)から報復され、漢中の張魯を頼る。
張魯の命令を受け、劉備の軍を迎撃。張飛と激しく渡り合い、勝負が付かず。後に、劉備の配下に入る。
※正史でも、並外れた武名あり。また、羌族の支持を得ていた。しかし、野心家で粗暴な性格。詳細
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コウチュウ カンショウ
益州では、厳顔と協力し、魏の韓浩・夏侯徳と対峙。誘引策を用い、敵軍を撃破し、韓浩を討ち取る。(一方、厳顔が夏侯徳を討ち取る。)後には、名将夏侯淵を急襲し、これを討ち取る。晩年も呉軍と力戦したが、功を焦って馬忠(呉将)の矢を受ける。まもなく死去。
※正史では、韓玄の部下だったことはない。関羽との勝負も記されない。しかし、演義同様、義を重んじる豪傑とされる。詳細
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キョウイ ハクヤク
孔明の死後、北伐を引き継ぐ。兵法や陣形に精通し、しばしば魏軍に完勝。名将鄧艾とも、好勝負を繰り広げる。両者は武芸でも互角。
鍾会(魏の知将)が蜀に侵攻すると、剣閣を堅守する。劉禅降伏後、姜維は鍾会をそそのかし、反乱を起こさせる。成功後、鍾会を始末する算段。しかし、鍾会の兵たちが暴動を起こし、鍾会は討死。姜維は自害する。
※正史でも、基本的な人物像は同じ。蜀屈指の逸材で、軍事の重鎮を担い、魏軍を度々苦しめた。しかし、度重なる北伐は、途中から泥沼化していたという。また、演義では、兵法能力が誇張気味に描かれる。詳細
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リゲン セイホウ
劉備死後、孔明が南征を行う。孔明は出発前、劉禅に言う。「李厳が白帝城におり、彼は陸遜に対抗できます。」かくて、李厳は呉の侵攻に備える。
第四次北伐の際、輸送を担当する。しかし期日に遅れ、罪を孔明に転嫁。罷免される。
※正史では、優秀な高級官僚。(輸送が遅れたのは、長雨が原因。)また、二度、反乱を鎮圧している。詳細
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ギエン ブンチョウ
まず、益州攻略で活躍。武勇に優れ、黄忠と張り合える実力を持つ。後には、北伐に参加し、猛将王双を急襲して倒す。張郃とも十余合渡り合う(その後わざと退いて誘引)。
我が強い性格で、時々孔明に反発。孔明死後暴走し、味方の馬岱に後ろから斬られる。
※正史によると、劉備から漢中を任されている。信頼はそれだけ厚かった。また、孔明に疎まれていた事実はない。詳細
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バリョウ キジョウ
赤壁戦のあと、荊州四郡の平定を進言。その後、関羽の参謀を務めたが、成都に援軍要請に行く。関羽死後、劉備が呉征伐に向かうと、大軍の事務を担当。また、先走る劉備を案じ、度々諫言する。
※正史では、国政で絶えず活躍。人格者としても知られた。一方、関羽の元にいた記述はない。詳細
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バショク ヨウジョウ
北伐では、司令官に抜擢され、街亭に到着。命令に背き、山上に布陣し、急襲の態勢を整える。しかし、司馬懿に水を断たれ、敗走して斬刑となる。「泣いて馬謖を斬る」の格言が生まれる。
※正史では、地方長官を歴任している。後には、孔明の日々の談論相手を務めた。一方、流言の話は正史にはなく、南征にも随行はしていない。詳細
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ホウセイ コウチョク
後に漢中攻略を進言し、自身も随行する。的確に兵を配置し、夏侯淵(魏の名将)を追い込む。
法正の死後、劉備は呉征伐を強行。孔明は、「法正がいてくれたら、止めることができたのに」と嘆く。
※正史でも大体同じ。活躍は演義より少し多く、「蜀科」(刑法)の制定にも関わっている。詳細
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ソンケン コウユウ
少しのち、関羽が曹操の客将となり、その後劉備の元に戻ろうとする。孫乾は劉備・関羽の間を行き来し、各々の相談役を務め、段取りを整える。後には、劉表への使者となり、劉備の荊州入りの前準備をする。
※正史でも優秀な補佐官。劉表からも、話相手として重宝された。演義の方が逸話は多い。詳細
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リュウホウ
漢中防衛戦に参加。敵を誘い出す任に当たり、徐晃と渡り合い、巧みに撤退する。その間に、蜀軍は陽平関を制圧。
後に、孟達と共に上庸を守備。このとき、関羽に援軍を送らず、劉備に恨まれる。その後、魏に寝返った孟達から誘われ、拒否して抗戦する。孟達、徐晃らに敗れ、蜀に帰ったが、関羽の件で刑死。劉備はすぐに後悔する。
※正史には、「武芸の腕があった」と明記。猛々しかったともいわれる。詳細
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モウタツ シケイ
後に劉封共々、上庸を守備。関羽に援軍を送らず、劉備に恨まれ魏に降る。その後、劉封と対戦し、伏兵策で手玉に取る。劉備死後、再度蜀に帰順。しかし司馬懿に急襲され、自ら徐晃を射殺したが、結局敗死する。
※正史でも、基本的な人物像は同じ。「優秀だが真心なし」とされる。(なお、正史での字(あざな)は「子敬」。)詳細
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カンペイ
益州攻略後、荊州に戻り、関羽と共に魏軍と対峙。敵将翟元(てきげん)を一撃で倒す。また、勇将龐徳と好勝負する。性格はやや短気。あるとき先走り、伏勢の前に敗れる。
後に、呉軍に抗戦。関羽共々、敗死する。
※正史では関羽の実子。記述は少なく、人物像は不詳。
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シュウソウ
やがて、関羽に従い、荊州防衛に従事する。水練に長けており、自らの筏(いかだ)を龐徳の船にぶつけ、水中で生け捕りにする。後に、関羽は麦城に入り、呉軍と対する。関羽は出撃して敗死し、周倉は麦城で殉死する。
※正史には登場しない。伝説上の人物で、民衆の間に広く浸透。また、伝説では怪力に加え、ずば抜けた健脚。
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リョウカ ゲンケン
劉備は後に、益州攻略に向かう。廖化はそのとき、配下に入り、関羽の元で荊州を守る。後には、夷陵戦に参加し、後詰を務める。劉備死後、孔明、姜維の北伐に参加。主力を務め、助言も時々行う。あるとき、剣を振るって司馬懿を追い込む。また、敵将秦良、鄭倫を一撃で倒す。
憂国の士で、後年には、姜維の度重なる出兵を諫める。
※正史でも、実直な良将。姜維の片腕として活躍し、後には北伐の先行きを案じる。なお、黄巾賊だったという記述はない。詳細
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劉備とその配下
演義での活躍を要約します。能力考察(三国志) 能力考察(後漢)
劉備 曹操 孫堅 袁紹 袁術
董卓 呂布 劉表 劉璋 その他
劉備 玄徳
漢王室の血筋。手と耳が長く、喜怒を表に出さない。関羽、張飛と「桃園の義」を結び、黄巾賊を討伐。二本の剣を使い、時に計略を用い、度々戦功を挙げる。董卓討伐でも活躍。仁徳をもって人望を獲得し、曹操に対抗する。軍師孔明を迎えてのち、益州を制圧し、蜀王朝を開く。
その後、関羽の復讐のため、呉への遠征を断行。善戦するも、火攻めによって敗れる。まもなく病床に伏し、子の劉禅を孔明に託す。
※正史では、度量の広さで知られた。仁徳とは少し違うが、やはり大きな人望あり。また、演義に比べ、現実主義者。応変な行動に長けていた。詳細
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諸葛亮 孔明
天才軍師。元々は、荊州で晴耕雨読の生活。やがて劉備に仕え、「天下三分の計」を説く。赤壁では、霧の中で囮の船隊を出し、敵から矢を集める。更に火計を献じ、祈祷して東南の風を呼ぶ。劉備が益州を平定すると、諸葛亮は法を制定。更に、漢中防衛戦に参加し、曹操軍を翻弄する。劉備の死後、魏への北伐を開始。司馬懿と名勝負を繰り広げ、しばしば一枚上を行く。
※正史では大政治家で、名行政官。正統派の儒家でもあり、徳治の手段として法を活用。一方、兵法能力も高かったが、飛び抜けてはいなかった。詳細
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龐統 士元
荊州で民間にいた頃、孔明と共に評判あり。赤壁戦の前に、曹操と面会。「船の揺れを止め、酔いを防ぐ」と称し、「船を全て鎖で繋ぐ」案を進言する。これは機動力を奪い、火計を成功させる策(「連環の計」)。劉備には、風貌で軽んじられ、地方の県の長官とされる。あえて政務を怠り、あるとき一気に処理。才を認められ、軍師となって益州に随行し、絶えず貢献する。やがて、孔明への対抗心から、功を焦る。間道を行軍中、矢を浴びて討死する。
※正史でも、孔明に次ぐ存在。また、人物評定を好み、多くの人士と交流があった。赤壁での活躍はフィクション。詳細
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徐庶 元直
孔明、龐統に次ぐ軍師。元は侠客で撃剣の使い手。後に学問を志す。新野の町で劉備と出会い、軍師として仕える。曹仁の敷いた「八門金鎖の陣」を打破。その後、曹操が徐庶の母を人質とし、徐庶はやむなく曹操に降る。劉備の元を去る前に、孔明を推薦。
赤壁戦の際、龐統の「連環の計」を見抜くも、曹操には言わない。願い出て西方の守備に赴き、難を逃れる。
※正史では、軍事での活躍はない。曹操に仕えてのち、官僚として出世。また、孔明からの評価は高く、人間的にも信頼されていた。詳細
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関羽 雲長
劉備の義弟。赤ら顔で、立派な顎髭を蓄える。身の丈は九尺。八十斤の青龍円月刀を得物に使う。武勇絶倫で義に厚く、学問を好んで「春秋左氏伝」を暗誦する。また、劉備の相談役も務める。一時曹操に投降し、その世話を受ける。敵の猛将顔良、文醜を倒し恩を返すと、五関を次々突破し、劉備の元に戻る。劉備が益州に向かうと、あとに残って荊州を守り、魏軍相手に力戦。しかし、呉の裏切りで敗死する。
※正史でも、人物像はそう変わらない。記述は多くないが、蜀一の名将として知られ、義にも厚かった。しかし、傲慢が過ぎたといわれる。詳細
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張飛 翼徳
劉備、関羽の義弟。虎のような髭を蓄える。身の丈八尺で、蛇矛(だぼう)を得物に使う。粗野、単純な性格で、酒を好む。虎牢関の戦いでは、呂布と渡り合う。後に徐州で再戦し、激闘を繰り広げる。長坂橋では、一騎で曹操軍をびびらせる。たまに策も用い、陽動作戦で厳顔、張郃を破る。呉軍が関羽を殺害すると、仇討ちの準備を急ぐ。しかし、乱暴に振舞い、部下に寝首をかかれる。
※正史でも、関羽と並ぶ武将。演義同様、粗暴な性格。但し、酒好きの記述はなし。(なお、正史での字(あざな)は「益徳」。)詳細
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趙雲 子龍
元は公孫瓚の武将。劉備共々活躍する。槍の使い手で、性格は実直。後に劉備に仕え、汝南戦に参加。許褚と互角に渡り合い、張郃を打ち負かす。長坂では、曹操の将を次々倒し、劉備の幼子(劉禅)を救う。桂陽平定時は、終始冷静さを見せる。漢中防衛でも活躍。寡勢で陣を守り、わざと隙を見せて惑わし、奇襲して撃退する。劉備から「全身肝」と評される。
劉備死後は、孔明の北伐に加わる。あるとき軽率に動き、敵の策にはまるも、武勇は健在。
※正史の伝は記述が少ないが、人物像は基本的に同じ。劉備から信頼され、親衛隊長を務め、やがて将軍に昇格した。また、「趙雲別伝」という家伝あり。詳細
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馬超 孟起
馬騰(西涼の群雄)の子。韓遂共々、曹操に対抗する。槍の使い手。度々曹操を苦しめたが、離間策により敗れる。後に、再び曹操の領地に侵攻し、城を攻撃する。敵将韋康は投降したが、一族共々殺害する。その結果、楊阜(韋康の参謀)から報復され、漢中の張魯を頼る。
張魯の命令を受け、劉備の軍を迎撃。張飛と激しく渡り合い、勝負が付かず。後に、劉備の配下に入る。
※正史でも、並外れた武名あり。また、羌族の支持を得ていた。しかし、野心家で粗暴な性格。詳細
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黄忠 漢升
元は劉盤、韓玄の武将。大刀、弓の使い手。忠義を重んじ、暴君韓玄に尽くす。老将ながら意気は衰えず、関羽と互角に渡り合う。韓玄の死後、劉備に帰服。益州攻略に参加し、度々活躍する。益州では、厳顔と協力し、魏の韓浩・夏侯徳と対峙。誘引策を用い、敵軍を撃破し、韓浩を討ち取る。(一方、厳顔が夏侯徳を討ち取る。)後には、名将夏侯淵を急襲し、これを討ち取る。晩年も呉軍と力戦したが、功を焦って馬忠(呉将)の矢を受ける。まもなく死去。
※正史では、韓玄の部下だったことはない。関羽との勝負も記されない。しかし、演義同様、義を重んじる豪傑とされる。詳細
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姜維 伯約
元は魏の臣。文武両道で孝心が強い。第一次北伐の際、蜀に帰順。以後の北伐では、孔明の作戦をそつなくこなす。孔明の死後、北伐を引き継ぐ。兵法や陣形に精通し、しばしば魏軍に完勝。名将鄧艾とも、好勝負を繰り広げる。両者は武芸でも互角。
鍾会(魏の知将)が蜀に侵攻すると、剣閣を堅守する。劉禅降伏後、姜維は鍾会をそそのかし、反乱を起こさせる。成功後、鍾会を始末する算段。しかし、鍾会の兵たちが暴動を起こし、鍾会は討死。姜維は自害する。
※正史でも、基本的な人物像は同じ。蜀屈指の逸材で、軍事の重鎮を担い、魏軍を度々苦しめた。しかし、度重なる北伐は、途中から泥沼化していたという。また、演義では、兵法能力が誇張気味に描かれる。詳細
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李厳 正方
元は劉璋の部下。綿竹関で劉備に抗戦。黄忠と渡り合い、好勝負する。しかし、孔明の計略に敗れ、劉備に帰服する。劉備死後、孔明が南征を行う。孔明は出発前、劉禅に言う。「李厳が白帝城におり、彼は陸遜に対抗できます。」かくて、李厳は呉の侵攻に備える。
第四次北伐の際、輸送を担当する。しかし期日に遅れ、罪を孔明に転嫁。罷免される。
※正史では、優秀な高級官僚。(輸送が遅れたのは、長雨が原因。)また、二度、反乱を鎮圧している。詳細
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魏延 文長
元は劉琮の武将。蔡瑁(劉琮の重臣)の暴虐を見かね造反。長沙太守韓玄を頼ったが、その暴虐ぶりを見て自ら殺害し、劉備に仕える。孔明からは、「反骨の相」と言われる(「上の者に逆らう」の意)。まず、益州攻略で活躍。武勇に優れ、黄忠と張り合える実力を持つ。後には、北伐に参加し、猛将王双を急襲して倒す。張郃とも十余合渡り合う(その後わざと退いて誘引)。
我が強い性格で、時々孔明に反発。孔明死後暴走し、味方の馬岱に後ろから斬られる。
※正史によると、劉備から漢中を任されている。信頼はそれだけ厚かった。また、孔明に疎まれていた事実はない。詳細
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馬良 季常
荊州屈指の賢才。馬氏の5兄弟の中でも筆頭。眉の一部が白く、「白眉」と呼ばれる。赤壁戦のあと、荊州四郡の平定を進言。その後、関羽の参謀を務めたが、成都に援軍要請に行く。関羽死後、劉備が呉征伐に向かうと、大軍の事務を担当。また、先走る劉備を案じ、度々諫言する。
※正史では、国政で絶えず活躍。人格者としても知られた。一方、関羽の元にいた記述はない。詳細
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馬謖 幼常
馬良の弟。兵法、謀略に通じる。孔明が南蛮討伐に赴く際、「心を攻めるのが上策」と進言。更に、征伐に随行し、孟獲の策(孟優の偽投降)を見抜く。後には、流言で魏の司馬懿を失脚させる。北伐では、司令官に抜擢され、街亭に到着。命令に背き、山上に布陣し、急襲の態勢を整える。しかし、司馬懿に水を断たれ、敗走して斬刑となる。「泣いて馬謖を斬る」の格言が生まれる。
※正史では、地方長官を歴任している。後には、孔明の日々の談論相手を務めた。一方、流言の話は正史にはなく、南征にも随行はしていない。詳細
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法正 孝直
元は劉璋の参謀。張松共々、劉備に寝返り、益州攻略に助力。平定が終わると、蜀郡太守に任じられる。性格は頑固で偏狭。些細な恨みにも、必ず報復する。後に漢中攻略を進言し、自身も随行する。的確に兵を配置し、夏侯淵(魏の名将)を追い込む。
法正の死後、劉備は呉征伐を強行。孔明は、「法正がいてくれたら、止めることができたのに」と嘆く。
※正史でも大体同じ。活躍は演義より少し多く、「蜀科」(刑法)の制定にも関わっている。詳細
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孫乾 公祐
徐州出身の文官。陶謙の推薦を受け、劉備の従事(補佐官)となる。助言したり、留守を守ったりする。やがて、劉備は曹操に反逆し、袁紹を頼ろうとする。孫乾は袁紹の元に赴き、鄭玄による紹介状を見せ、承諾を取り付ける。少しのち、関羽が曹操の客将となり、その後劉備の元に戻ろうとする。孫乾は劉備・関羽の間を行き来し、各々の相談役を務め、段取りを整える。後には、劉表への使者となり、劉備の荊州入りの前準備をする。
※正史でも優秀な補佐官。劉表からも、話相手として重宝された。演義の方が逸話は多い。詳細
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劉封
劉備が荊州に滞在したとき、養子となる。立派な風貌、体格の持ち主。しばしば、関平とコンビで行動する。漢中防衛戦に参加。敵を誘い出す任に当たり、徐晃と渡り合い、巧みに撤退する。その間に、蜀軍は陽平関を制圧。
後に、孟達と共に上庸を守備。このとき、関羽に援軍を送らず、劉備に恨まれる。その後、魏に寝返った孟達から誘われ、拒否して抗戦する。孟達、徐晃らに敗れ、蜀に帰ったが、関羽の件で刑死。劉備はすぐに後悔する。
※正史には、「武芸の腕があった」と明記。猛々しかったともいわれる。詳細
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孟達 子慶
元は劉璋の部下。後に劉備に帰服し、葭萌(かぼう)関を守る。出撃したが、張郃(ちょうこう)に敗北。漢中防衛戦では、劉備の指揮の元、魏軍の一角を破る。後に劉封共々、上庸を守備。関羽に援軍を送らず、劉備に恨まれ魏に降る。その後、劉封と対戦し、伏兵策で手玉に取る。劉備死後、再度蜀に帰順。しかし司馬懿に急襲され、自ら徐晃を射殺したが、結局敗死する。
※正史でも、基本的な人物像は同じ。「優秀だが真心なし」とされる。(なお、正史での字(あざな)は「子敬」。)詳細
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関平
関羽の養子。劉封や周倉とコンビで行動。益州攻略後、荊州に戻り、関羽と共に魏軍と対峙。敵将翟元(てきげん)を一撃で倒す。また、勇将龐徳と好勝負する。性格はやや短気。あるとき先走り、伏勢の前に敗れる。
後に、呉軍に抗戦。関羽共々、敗死する。
※正史では関羽の実子。記述は少なく、人物像は不詳。
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周倉
元は黄巾賊、その後山賊。怪力の持ち主。五関突破後の関羽と出会い、帰服を申し出る。承諾を受けたあと、一度砦に帰ると、既に趙雲が占拠。そこで自ら渡り合い、三箇所に傷を受ける。その後、関羽の従者となり、しばしば関平とコンビになる。やがて、関羽に従い、荊州防衛に従事する。水練に長けており、自らの筏(いかだ)を龐徳の船にぶつけ、水中で生け捕りにする。後に、関羽は麦城に入り、呉軍と対する。関羽は出撃して敗死し、周倉は麦城で殉死する。
※正史には登場しない。伝説上の人物で、民衆の間に広く浸透。また、伝説では怪力に加え、ずば抜けた健脚。
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廖化 元倹
元は黄巾賊、その後山賊。関羽千里行の際(五関突破前)、仲間の杜遠が劉備の夫人達を拉致。廖化は杜遠を殺害し、関羽に会う。劉備は後に、益州攻略に向かう。廖化はそのとき、配下に入り、関羽の元で荊州を守る。後には、夷陵戦に参加し、後詰を務める。劉備死後、孔明、姜維の北伐に参加。主力を務め、助言も時々行う。あるとき、剣を振るって司馬懿を追い込む。また、敵将秦良、鄭倫を一撃で倒す。
憂国の士で、後年には、姜維の度重なる出兵を諫める。
※正史でも、実直な良将。姜維の片腕として活躍し、後には北伐の先行きを案じる。なお、黄巾賊だったという記述はない。詳細
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