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カクカ ホウコウ
魏の参謀。戦略眼、軍略に長け、曹操に重用される。しばしば征伐に随行し、曹操の勝利に貢献。取り分け、対袁氏、対烏丸で重要な進言をする。
・姓名を変え、隠遁生活に入る。その期間、様々な人士と通じる。(恐らく、情報網を構築し、日々情勢を分析。)やがて、司徒の府に招かれる。
・袁紹(名門貴族)の元に行ったが、結局去る。その際、郭図と辛評(いずれも郭嘉と同郷)にこう言う。「袁紹は、あえて謙譲の態度を取るが、人を使う機微は知らない。また、事の細部にこだわり、要点を押さえない。決断力も欠けている。」
・荀彧の推薦により、曹操に招かれる。時期は、曹操が献帝を奉じたあと。
・曹操と語り合い、大いに評価される。かくて、軍祭酒に任じられる。祭酒は「筆頭」の意。軍祭酒は、軍事顧問のトップ。(なお、荀攸が「軍師」という官職にあり、軍の諸事を統括した。郭嘉とは、立場が少し異なる。)
・最初の五つ。「道」は、自然体である点。「義」は、帝を奉じている点。「政」は、権勢者を抑制する点。「度」は、部下への信任。「謀」は、適時な方策。
・次の五つ。「徳」は、事の本質を見る点。「仁」は、行き届いた統治。「明」は、部下をしっかりまとめる点。「文」は、礼と法。「武」は、兵力差を覆す兵法。
・なお、荀彧も同様に、「四つの勝ち」を挙げている。(どちらが先かは不明。)上の十個の内、四つ(度・謀・武・徳)は荀彧の言と重複。共通認識だったのだろう。(因みに、荀彧の言は正史本文、郭嘉の方は「傅子」に記される。)
・一方、「傅子」によれば、郭嘉は「劉備は傑物だから、早く始末すべき」と進言している。どちらが正しいかは不明。(恐らく、受け入れを進言しつつ、警戒を促した。)
・当時、呂布は下邳(かひ)城に駐屯。曹操は城に進軍したが、なかなか落とせず、撤退を考える。郭嘉は、「既に呂布の気力は衰え、体制も崩れています」と述べ、攻撃を勧める。荀攸も同様に主張し、曹操は同意。曹操は、(荀攸・郭嘉の作戦に従って)二つの川を決壊させ、勝利を得る。
・その後、許貢の食客だった者たちが、孫策を暗殺。(許貢は、孫策が昔殺害した有力者。)郭嘉の言葉通りとなる。(郭嘉も勿論、暗殺をはっきり予期していた筈はないが、要するに情勢不穏を看破。)
・曹操は袁紹と開戦。攻防ののち、勝利を得る。郭嘉もこれに貢献(詳細不明)。袁紹はやがて病死し、三子の袁尚が跡を継ぐ。
・袁尚は、袁譚(袁紹の長子)共々、黎陽県に駐屯。曹操はこれを討伐し、勝利を得る。郭嘉もこれに貢献(詳細不明)。
・袁尚と袁譚は、本拠地の鄴(ぎょう)に籠城。曹操は、苦戦を強いられる。部下の多くは、「徹底して攻めるべき」と主張する。しかし郭嘉は、あえての撤退を説く。「彼等は内紛を抱えています。外敵を前に団結しているだけです。我々が撤退し、劉表を攻める振りをすれば、彼等は勝手に争いを始めます。」曹操はこの進言に従う。郭嘉の予測は的中し、袁尚と袁譚は交戦する。(郭嘉はいつも、人心の動きを精確に読む。)
・鄴の審配討伐、南皮の袁譚討伐に随行し、勝利に貢献する(詳細不明)。
・まず、こう述べる。「袁紹は常々、蛮族・人民に恩徳を施していました。我々が南方に去れば、彼等は自然と、袁氏に従いたくなるでしょう。」
・次に、こう述べる。「劉表の元には劉備がいますが、これを重用すれば制御できず、軽く扱えば動かせず、結局何もできないでしょう。」
・最後に、こう述べる。「烏丸の拠点までの道は遠いので、大軍でじっくり攻めるなら、輜重(しちょう)隊の移動に時間がかかります。敵はその間に、防備を固めてしまうでしょう。ここは、精兵で速攻すべきです。今なら敵は油断しています。」(郭嘉は軍略家。念入りに行軍計画を立て、勝算を弾き出した上での発言だろう。)
・曹操は、一連の進言に従う。郭嘉自身も、遠征に随行する。烏丸は敗れ、劉表もその間動かず。
・常々、品行を整えない。陳羣(儒家名士)が曹操に訴え、そのことを批判する。しかし、郭嘉は意に介さず、曹操も陳羣の訴えを斥ける。(曹操は一方で、陳羣の慎みを評価していたという。)
・烏丸討伐から帰還後、病床に伏す。曹操は、見舞いの使者を何度も出す。やがて死去(38歳)。子の郭奕(かくえき)が跡を継ぐ。郭奕も聡明で知られたという。
・曹操は上奏し、郭嘉を称賛。まず、こう述べる。「重要な議論がある度、その発言は朝廷を震わし、中庸を守って事を処理しました。彼の立てる計画には、常に手抜かりがありませんでした。」(郭嘉は政治家タイプではないが、情勢判断に長けていた。)
・更に、こう述べる。「彼は11年間征伐に付き従い、巧みに変化に対処し、いつも私より早く方策を思い付きました。その計略の功を評価します。私は呂布、眭固(すいこ)、袁譚、烏丸、袁尚を征伐し、勝利を得ましたが、これらは彼のおかげです。」(活躍の詳細は不明だが、相当な貢献度だったことが分かる。随時に情勢を判断し、敵の動向を読み、的確に軍略を立てたのだろう。)
・曹操は荀彧に手紙を送る。「郭奉孝(郭嘉)は四十にもなっていなかったが、私は常に彼と苦労を共にした。彼は道理に通じており、滞りなく事態に対処した。いずれ、彼に後事を託すつもりだった。」別の手紙(同じく荀彧宛て)では、「彼(郭嘉)の時事、軍事に対する判断は人智を超えていた」と述べている。
・陳寿は程昱、郭嘉、董昭、劉曄、蒋済をまとめて評する。「策略、謀略に優れた奇士であった。清、徳では荀攸に劣るが、画策に関しては同等である。」
荀彧 荀攸 賈詡 程昱
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カクカ ホウコウ
郭嘉 奉孝
~曹操に信愛された天才~
魏の参謀。戦略眼、軍略に長け、曹操に重用される。しばしば征伐に随行し、曹操の勝利に貢献。取り分け、対袁氏、対烏丸で重要な進言をする。
初期
・豫州(よしゅう)の潁川(えいせん)郡出身。荀彧や陳羣(ちんぐん)と同郷。家柄は不詳。・姓名を変え、隠遁生活に入る。その期間、様々な人士と通じる。(恐らく、情報網を構築し、日々情勢を分析。)やがて、司徒の府に招かれる。
・袁紹(名門貴族)の元に行ったが、結局去る。その際、郭図と辛評(いずれも郭嘉と同郷)にこう言う。「袁紹は、あえて謙譲の態度を取るが、人を使う機微は知らない。また、事の細部にこだわり、要点を押さえない。決断力も欠けている。」
・荀彧の推薦により、曹操に招かれる。時期は、曹操が献帝を奉じたあと。
・曹操と語り合い、大いに評価される。かくて、軍祭酒に任じられる。祭酒は「筆頭」の意。軍祭酒は、軍事顧問のトップ。(なお、荀攸が「軍師」という官職にあり、軍の諸事を統括した。郭嘉とは、立場が少し異なる。)
袁紹と曹操を比較
・当時、袁紹が河北に割拠。強大さを誇り、曹操はこれを案じる。そこで、郭嘉は曹操を称賛し、「曹操が袁紹に勝る点」を十個挙げる。即ち、道(在り方)、義、度(度量)、政、謀、徳、仁、明(聡明さ)、文(統治)、武(用兵)。以下、内容を要約。・最初の五つ。「道」は、自然体である点。「義」は、帝を奉じている点。「政」は、権勢者を抑制する点。「度」は、部下への信任。「謀」は、適時な方策。
・次の五つ。「徳」は、事の本質を見る点。「仁」は、行き届いた統治。「明」は、部下をしっかりまとめる点。「文」は、礼と法。「武」は、兵力差を覆す兵法。
・なお、荀彧も同様に、「四つの勝ち」を挙げている。(どちらが先かは不明。)上の十個の内、四つ(度・謀・武・徳)は荀彧の言と重複。共通認識だったのだろう。(因みに、荀彧の言は正史本文、郭嘉の方は「傅子」に記される。)
呂布攻略
・曹操が呂布(徐州の群雄)と敵対する。また、劉備が呂布に敗れ、曹操を頼る。王沈「魏書」によると、郭嘉は、劉備の受け入れを進言。「傑物の劉備を厚遇しなければ、人心を失います」。曹操はこれに同意する。・一方、「傅子」によれば、郭嘉は「劉備は傑物だから、早く始末すべき」と進言している。どちらが正しいかは不明。(恐らく、受け入れを進言しつつ、警戒を促した。)
・当時、呂布は下邳(かひ)城に駐屯。曹操は城に進軍したが、なかなか落とせず、撤退を考える。郭嘉は、「既に呂布の気力は衰え、体制も崩れています」と述べ、攻撃を勧める。荀攸も同様に主張し、曹操は同意。曹操は、(荀攸・郭嘉の作戦に従って)二つの川を決壊させ、勝利を得る。
江東の情勢
・曹操が孫策(江東の群雄)を警戒する。郭嘉は、孫策政権の問題点を述べる。「孫策は江東を平定する際、現地の英傑たちを殺害しました。彼等は皆、部下の忠誠を得ていました。孫策はそのことを軽んじ、警戒を怠っています。その内に仇と狙われ、命を落とすでしょう。」(江東の有力者たちは、しばしば、遊侠的集団を形成。郭嘉は恐らく、独自の情報網をもって、その辺の情勢を熟知していた。)・その後、許貢の食客だった者たちが、孫策を暗殺。(許貢は、孫策が昔殺害した有力者。)郭嘉の言葉通りとなる。(郭嘉も勿論、暗殺をはっきり予期していた筈はないが、要するに情勢不穏を看破。)
対劉備・対袁氏
・曹操は袁紹征伐を決めたが、劉備に徐州を奪われる。郭嘉は、「劉備が力を付ける前に、片付けるべき」と進言。更に、「袁紹はすぐには動かないので、その前に勝利することが可能」と算段する。曹操はこれに従い、劉備を敗走させる。・曹操は袁紹と開戦。攻防ののち、勝利を得る。郭嘉もこれに貢献(詳細不明)。袁紹はやがて病死し、三子の袁尚が跡を継ぐ。
・袁尚は、袁譚(袁紹の長子)共々、黎陽県に駐屯。曹操はこれを討伐し、勝利を得る。郭嘉もこれに貢献(詳細不明)。
・袁尚と袁譚は、本拠地の鄴(ぎょう)に籠城。曹操は、苦戦を強いられる。部下の多くは、「徹底して攻めるべき」と主張する。しかし郭嘉は、あえての撤退を説く。「彼等は内紛を抱えています。外敵を前に団結しているだけです。我々が撤退し、劉表を攻める振りをすれば、彼等は勝手に争いを始めます。」曹操はこの進言に従う。郭嘉の予測は的中し、袁尚と袁譚は交戦する。(郭嘉はいつも、人心の動きを精確に読む。)
・鄴の審配討伐、南皮の袁譚討伐に随行し、勝利に貢献する(詳細不明)。
烏丸討伐
・曹操が烏丸族(袁尚と結託)の討伐を考える。部下の多くは、「先に劉表(南方の群雄)を倒すべきです」と言う。しかし、郭嘉は、三つの観点から、烏丸討伐を説く。・まず、こう述べる。「袁紹は常々、蛮族・人民に恩徳を施していました。我々が南方に去れば、彼等は自然と、袁氏に従いたくなるでしょう。」
・次に、こう述べる。「劉表の元には劉備がいますが、これを重用すれば制御できず、軽く扱えば動かせず、結局何もできないでしょう。」
・最後に、こう述べる。「烏丸の拠点までの道は遠いので、大軍でじっくり攻めるなら、輜重(しちょう)隊の移動に時間がかかります。敵はその間に、防備を固めてしまうでしょう。ここは、精兵で速攻すべきです。今なら敵は油断しています。」(郭嘉は軍略家。念入りに行軍計画を立て、勝算を弾き出した上での発言だろう。)
・曹操は、一連の進言に従う。郭嘉自身も、遠征に随行する。烏丸は敗れ、劉表もその間動かず。
曹操による賛辞
・深く算段と計略に通じる。曹操はあるとき、こう言う。「郭奉孝(郭嘉)だけが私の意図を知る。」(曹操に信任された参謀といえば、他に荀彧もいるが、荀彧は儒家名士でもある。郭嘉は、自由な立場から物事を捉え、その点でも曹操と合ったと思われる。)
・常々、品行を整えない。陳羣(儒家名士)が曹操に訴え、そのことを批判する。しかし、郭嘉は意に介さず、曹操も陳羣の訴えを斥ける。(曹操は一方で、陳羣の慎みを評価していたという。)
・烏丸討伐から帰還後、病床に伏す。曹操は、見舞いの使者を何度も出す。やがて死去(38歳)。子の郭奕(かくえき)が跡を継ぐ。郭奕も聡明で知られたという。
・曹操は上奏し、郭嘉を称賛。まず、こう述べる。「重要な議論がある度、その発言は朝廷を震わし、中庸を守って事を処理しました。彼の立てる計画には、常に手抜かりがありませんでした。」(郭嘉は政治家タイプではないが、情勢判断に長けていた。)
・更に、こう述べる。「彼は11年間征伐に付き従い、巧みに変化に対処し、いつも私より早く方策を思い付きました。その計略の功を評価します。私は呂布、眭固(すいこ)、袁譚、烏丸、袁尚を征伐し、勝利を得ましたが、これらは彼のおかげです。」(活躍の詳細は不明だが、相当な貢献度だったことが分かる。随時に情勢を判断し、敵の動向を読み、的確に軍略を立てたのだろう。)
・曹操は荀彧に手紙を送る。「郭奉孝(郭嘉)は四十にもなっていなかったが、私は常に彼と苦労を共にした。彼は道理に通じており、滞りなく事態に対処した。いずれ、彼に後事を託すつもりだった。」別の手紙(同じく荀彧宛て)では、「彼(郭嘉)の時事、軍事に対する判断は人智を超えていた」と述べている。
・陳寿は程昱、郭嘉、董昭、劉曄、蒋済をまとめて評する。「策略、謀略に優れた奇士であった。清、徳では荀攸に劣るが、画策に関しては同等である。」