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ソウソウ モウトク
曹操 孟徳
  
~多才で感性鋭い変革者~

 後漢の群雄、魏国(漢の藩国)の王。最初は朝臣、地方官として活躍。旗揚げしてのち、漢の帝を奉じ、諸群雄を討伐する。華北を全て制し、魏公、続いて魏王となり、法治国家を作る。その死後、子の曹丕が魏王朝を開く。



育ち
・豫州(よしゅう)の沛国出身。太尉曹嵩の子。曹嵩は、宦官曹騰の養子。
・機転と策謀に長ける。また、様々な書物を読み、特に兵法書を好む。一方、鷹を飛ばし犬を走らせ、狩りに興じる。体格は小柄。


・遊侠を気取って奔放に振舞う。袁紹とも交流する。
・あるとき、張譲(宦官)の邸内に侵入する。家人はやがて曹操に気付く。曹操は手に戟を持ち、非凡な武芸で追手を退ける。(孫盛「異同雑語」の記事。)侵入の理由は不詳。
・素行が悪かったため、いい評判は得られず。(恐らく、表面を取り繕わず、儒教的品行に反していた。)但し、橋玄ら一部の名士からは、高く評価される。




若手時代
・孝廉に推挙される。(孝廉とは、官僚の候補枠。)郎(宮仕え)となったあと、洛陽北部尉に任じられ、治安を取り締まる。違法者を公平に断罪。
頓丘(とんきゅう)県の令となる。(兗州東郡。)

・朝廷で議郎となる。(帝の諮問に答える官。)当時、外戚や宦官は私欲で動き、大臣達もその手先。(外戚とは、太后・皇后の一族。)曹操は繰り返し上奏し、彼等を厳しく非難する。

・騎都尉に任じられ、黄巾を討伐する。功績により、済南国の相(しょう)に任じられる。(相とは長官。)
・済南国には、外戚に贈賄する者が多い。曹操は、彼等を次々罷免する。一方、民間では怪しげな祭祀が流行っていたが、曹操はそれらを禁止する。


・東郡太守に任じられたが、仮病を使い辞退する。(当時朝廷の腐敗は度を越しており、曹操は既に見切りを付けていた。)まもなく故郷に戻り、城外に家を構える。春と夏は読書をして過ごし、秋と冬は狩りに興じる。




旗揚げ
・朝廷に召し出され、典軍校尉に任じられる。
・董卓が都で横暴を振るう。曹操は軍資金を集め、陳留郡(兗州)で旗揚げする。一方、袁紹が董卓討伐軍を結成し、曹操もこれに参加。あるとき単独で進軍し、徐栄(董卓の将)に善戦する。
・討伐軍が瓦解したあと、曹操は揚州で兵を集める。やがて、兵の多くが反乱を起こし、曹操は脱出する。その際、自ら数十人を倒したという。(王沈「魏書」の記事。)


・袁紹が冀州の牧(長官)となる。曹操は、袁紹の推薦を受け、東郡太守に任じられる。
・荀彧(じゅんいく)を配下に加える。(名族出身の賢人。)荀彧は、董卓の自滅を予測。
・董卓を放置し、地盤固めに努める。黒山賊や匈奴を討伐し、これらを破る。少しのち、董卓は王允・呂布に暗殺される。




兗州時代
・青州黄巾賊が兗州に侵入する。曹操は陳宮(州の名士)の協力の元、兗州牧を称し、黄巾の平定に当たる。(三年後、正式な任命を受ける。)
・黄巾の兵力は多く、曹操は苦戦する。曹操は信賞必罰を明確にし、士気を引き締める。度々伏兵を設け、敵を破り、何度も降伏を勧告。賊は長年、流民生活を送っており、曹操陣営への編入を望む。かくて曹操は、大軍を手に入れる。

・袁術が進軍し、袁紹のいる冀州に向かう。曹操は袁紹に味方し、袁術を迎撃。これを大敗させ、揚州に追い落とす。


・父曹嵩が徐州に赴き、陶謙の部下に殺害される。曹操は、報復戦を開始する。徐州に侵攻し、殺戮を行ったが、勝ち切れず撤退。
・翌年再び侵攻し、同様に殺戮する。一方、陳宮が地元で離反し、張邈(ちょうばく)、呂布と結託する。(前者は、兗州陳留郡の太守で、曹操の盟友だった。後者は、流浪中の勇将。)呂布らは、兗州の各地を攻略し、諸県は次々呼応する。(この頃の曹操は、指導者としての信頼を失っていた。)

・呂布と対戦したが、騎兵隊の前に敗れる。その後も劣勢が続いたが、蝗害のため双方撤退。後に再び進軍し、伏兵をもって呂布を破る。




許都時代
・荀彧らの進言により、帝を奉じることを決め、洛陽に移る。当時、韓暹(かんせん)と楊奉に権勢あり。(韓暹は洛陽、楊奉は南の梁に駐在。)曹操は韓暹を追放し、楊奉を敗走させる。

許県に遷都する。(荀彧らの進言による。)許は、豫州潁川郡に属する県。遷都完了後、「許都」とも呼ばれるようになる。

司空(民政大臣)となり、屯田を開始。具体的には、荒地を耕作する民を募集し、通常の農戸とは別に管理する。当時流民の数が多く、彼等を活用する算段。まず許都近辺で行い、これが成功したため、各地方でも実行する。(なお、曹操が行った屯田は「民屯」と呼ばれる。「軍屯」は、辺境で兵に耕作させる。)


・張繍が帰順してくるも、懐柔を怠って背かれる。奇襲を受け、子の曹昂が戦死する。
・袁術が帝を僭称し、陳国(豫州)に侵入する。曹操は征伐に向かい、これを撃破する。
・徐州に進軍し、呂布を討伐する。城を攻撃し、討ち滅ぼす。
・張繍が再び降伏し、曹操はこれを受け入れる。




冀州平定
・袁紹が河北を全て制圧。曹操は、袁紹と開戦する。(兵力は袁紹がだいぶ上回る。)荀攸と共に画策し、急襲作戦で顔良、囮作戦で文醜を破る。(いずれも、袁紹配下の勇将。)
・官渡(かんと)の地で、袁紹と対峙する。劣勢になるも、自ら五千の兵を率い、敵の補給地・烏巣(うそう)を襲撃する。これを陥落させ、敵の援軍も破る。その後、総攻撃をかけ、遂に袁紹は撤退。


・袁紹の死後、袁尚(三子)が跡を継ぐ。(長子は袁譚。)曹操は、黎陽で袁譚、袁尚と対峙。長期戦ののち、鄴(ぎょう)に敗走させる。(鄴は袁氏の本拠地。)鄴では苦戦し、ひとまず撤退。
・袁譚は袁尚と争うも、劣勢になり、曹操に帰順する。曹操は、鄴城に進軍し、審配(袁尚配下)と対する。苦戦ののち、城を陥落させる。




新時代開始
冀州牧に任じられる。州都は鄴県(冀州魏郡)。
・法を徹底させ、豪族の振舞いを制する。(具体的には、小作人からの徴収、治外法権など。)
・私的な復讐、贅沢な葬礼を禁止する。
・布告を出し、「毎月の初めに、政治の不備を進言せよ」と告げる。


・袁譚が反乱する。曹操は南皮に進軍し、袁譚を討伐する。苦戦を強いられるも、兵を鼓舞して逆襲し、討ち滅ぼす。
・袁尚、袁熙(袁紹の次子)が烏丸族と連合する。曹操は烏丸を撃破し、袁尚らは遼東郡(幽州東部)に逃亡。袁尚らは郡の乗っ取りを考え、公孫康(遼東太守)の殺害を企てたが、逆に殺害される。これにより、袁氏の勢力は滅亡。


三公を廃止し、丞相の官を復活させ、自ら就任する。(丞相は前漢末から、長らく廃止されていた。)三公とは、司徒(内政全般)、司空(民政)、太尉(国防)を指す。




赤壁・関中
・荊州に進軍し、劉表を征伐する。劉表は病死し、子の劉琮は降伏。
・南下を続け、長江に進出する。江南(長江の南)の孫権は、周瑜を水軍の司令官とし、赤壁の地で迎撃させる。(劉備も助力。)曹操の軍は疫病、火攻めにより混乱。曹操は撤退を決め、鄴で立て直しを図る。


・当時の社会は、儒教偏重。人材登用の際も、品行が重視され、次第に形が先行する。そこで曹操は布告を出し、「品行とは別に才を見よ」と告げる。(この布告は、「求賢令」と呼ばれる。)


・馬超、韓遂ら関中軍閥が反乱し、潼関(とうかん)に進軍する。曹操は苦戦しつつ、要所に陣営を構築し、有利な形勢を作る。その後、離間策で撹乱し、総攻撃して勝利する。




魏国成立
・濡須で孫権と対したが、やがて撤退を決める。

魏国を建国し、魏公となる。魏国は、漢王朝の藩国。下に十の郡を含む(中心は魏郡)。
・魏国に尚書(秘書機関)、侍中(政治顧問)、六卿を設置する。

・漢中の張魯の討伐に向かう。(張魯は「五斗米道」の教祖。道教の一派。)張衛(張魯の弟)が要害に布陣したが、これを急襲して撃破。張魯を降伏させ、漢中を制圧する。


魏王に昇格する。鍾繇(しょうよう)を相国(しょうこく)に任命。
・再び濡須に進軍する。戦況が膠着すると、夏侯惇に大軍を任せ、自身は帰還。
・劉備が漢中を制圧。曹操は自ら奪還に向かったが、落とすことはできず。(漢中は要害。)




建安文学・跡目問題
・詩の文化「建安文学」を主導。これは、形式にこだわらず、自由に心情を吐露することを流儀とする。
・曹操自身、しばしば詩作する。三子曹丕、五子曹植も文才があり、特に曹植は天才的だったという。
・一時曹植に肩入れし、跡目問題が発生。結局、曹丕を跡継ぎとする。

・王沈「魏書」によると、曹操は音楽、建築、器具にも造詣あり。


・曹操の死後、曹丕は帝(献帝)から帝位を譲り受け、魏王朝を開く。
陳寿は曹操を評して言う。「策略、法治、戦術に長けていた。私情に囚われず、人材の活用を徹底した。過去に問題のある者でも、積極的に起用した。明晰な戦略は随一。尋常ならざる人物であり、規格外の傑物。」




曹丕 曹植 劉備 孫権 袁紹


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