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チョウコウ シュンガイ
魏の将。初め袁紹に仕え、官渡戦に参加し、適切な進言をする。その後曹操に帰順し、戦勝を重ねる。北伐迎撃にも参加し、度々活躍したが、諸葛亮の伏兵に射殺される。
・黄巾討伐の募兵に応じ、司馬(軍のまとめ役)として韓馥(かんふく)に所属。
・韓馥が袁紹に降ると、張郃もこれに従う。その後、公孫瓚討伐で活躍する(詳細不明)。
・官渡の戦いに参加する。烏巣(袁紹軍の補給地)が襲撃されると、張郃は救援を強く主張する。袁紹は郭図(かくと)の意見に従い、曹操の本陣攻撃を重視。張郃、高覧を向かわせる。(袁紹は張郃の作戦を却下したが、張郃の実力は買っていた。高覧も恐らく名将。)また、烏巣にも軽騎兵を送る。
・烏巣は結局、陥落させられる。一方、曹操本陣の守備は堅い(守将曹洪)。張郃らは勝てず、帰順を決める。(郭図が袁紹に讒言(ざんげん)したのが一因、とされる。)袁紹は官渡から敗走し、やがて死去。袁尚(三子)が跡を継ぐ。
・張遼と共に先鋒となり、柳城(烏丸族の拠点)に進軍。これを撃破する。(烏丸族は袁氏と連合。)更に、楽進共々、青州の管承を破る。(管承は海賊。袁譚に服していた。)
・張遼と協力し、潜山の陳蘭、梅成を破る。(潜山は揚州廬江郡。)
・馬超、韓遂の討伐に参加する。(馬超らは関中の指導者。)曹操は勝利し、張郃も戦功を挙げる。その後、張郃は夏侯淵と協力し、梁興、氐(てい)族、宋建を破る。また、張魯討伐の際、事前に氐族を討伐する。
・夏侯淵に従い、漢中に駐屯する。巴東郡、巴西郡(いずれも劉備領)に侵攻し、住民を取り込む。その後、張飛(巴西太守)と対陣。五十日後、山道で奇襲を受け、敗走する。(恐らく、張飛の方が地理に詳しかった。)
・武将でありながら、儒者を厚遇し、朝政にも気を配る。このため、曹操から称賛を受ける。
・夏侯淵の死後、漢中の司令官となる。劉備は、「張郃こそが一番の強敵だ」と言う。(夏侯淵は急襲を得意としたが、張郃は攻守に長けていた。)
・諸葛亮の北伐と対する。馬謖(蜀将)が街亭(雍州天水郡)に進軍し、山の上に駐屯する。張郃は水路を断ち、敗走させる。(第一次北伐。)
・司馬懿(魏の重臣)が第四次北伐と対し、張郃もこれに従う。蜀軍撤退後、追撃を命じられる。張郃は「不用意に追うのは危うい」と主張したが、司馬懿は聞かない。その後、張郃は伏兵に射殺される。
・機を見るに敏感で、常に地形・状況に即して陣営を置く。(演義では描かれない個性。)諸葛亮は、張郃を警戒したという。
・陳寿は五将(張遼、楽進、于禁、張郃、徐晃)をまとめて評する。「曹操の武勲を助けた将の中でも、この5人が最も優秀だった。」
・更に、張郃を評して言う。「臨機応変の才があった。また、こう記す。「評判(臨機応変)を裏付ける逸話は、あまり残っていない。恐らく、記録に遺漏があるのだろう。」
張遼 楽進 于禁 徐晃 夏侯淵
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チョウコウ シュンガイ
張郃 儁乂
~機略に優れた将軍~
魏の将。初め袁紹に仕え、官渡戦に参加し、適切な進言をする。その後曹操に帰順し、戦勝を重ねる。北伐迎撃にも参加し、度々活躍したが、諸葛亮の伏兵に射殺される。
袁紹に尽力
・冀州(きしゅう)の河間郡出身。出自は不詳。・黄巾討伐の募兵に応じ、司馬(軍のまとめ役)として韓馥(かんふく)に所属。
・韓馥が袁紹に降ると、張郃もこれに従う。その後、公孫瓚討伐で活躍する(詳細不明)。
・官渡の戦いに参加する。烏巣(袁紹軍の補給地)が襲撃されると、張郃は救援を強く主張する。袁紹は郭図(かくと)の意見に従い、曹操の本陣攻撃を重視。張郃、高覧を向かわせる。(袁紹は張郃の作戦を却下したが、張郃の実力は買っていた。高覧も恐らく名将。)また、烏巣にも軽騎兵を送る。
・烏巣は結局、陥落させられる。一方、曹操本陣の守備は堅い(守将曹洪)。張郃らは勝てず、帰順を決める。(郭図が袁紹に讒言(ざんげん)したのが一因、とされる。)袁紹は官渡から敗走し、やがて死去。袁尚(三子)が跡を継ぐ。
対袁氏・対馬超
・河北(袁氏の領地)の平定に従事。鄴(ぎょう)の審配、南皮の袁譚討伐に参加し、戦功を挙げる。続いて、楽進と共に別働隊となり、雍奴県(幽州漁陽郡)を落とす。・張遼と共に先鋒となり、柳城(烏丸族の拠点)に進軍。これを撃破する。(烏丸族は袁氏と連合。)更に、楽進共々、青州の管承を破る。(管承は海賊。袁譚に服していた。)
・張遼と協力し、潜山の陳蘭、梅成を破る。(潜山は揚州廬江郡。)
・馬超、韓遂の討伐に参加する。(馬超らは関中の指導者。)曹操は勝利し、張郃も戦功を挙げる。その後、張郃は夏侯淵と協力し、梁興、氐(てい)族、宋建を破る。また、張魯討伐の際、事前に氐族を討伐する。
・夏侯淵に従い、漢中に駐屯する。巴東郡、巴西郡(いずれも劉備領)に侵攻し、住民を取り込む。その後、張飛(巴西太守)と対陣。五十日後、山道で奇襲を受け、敗走する。(恐らく、張飛の方が地理に詳しかった。)
・武将でありながら、儒者を厚遇し、朝政にも気を配る。このため、曹操から称賛を受ける。
対蜀
・漢中の守備に当たる。あるとき、劉備が夜襲をかける。張郃は親衛隊と共に戦闘し、これを撃退する。・夏侯淵の死後、漢中の司令官となる。劉備は、「張郃こそが一番の強敵だ」と言う。(夏侯淵は急襲を得意としたが、張郃は攻守に長けていた。)
・諸葛亮の北伐と対する。馬謖(蜀将)が街亭(雍州天水郡)に進軍し、山の上に駐屯する。張郃は水路を断ち、敗走させる。(第一次北伐。)
・司馬懿(魏の重臣)が第四次北伐と対し、張郃もこれに従う。蜀軍撤退後、追撃を命じられる。張郃は「不用意に追うのは危うい」と主張したが、司馬懿は聞かない。その後、張郃は伏兵に射殺される。
・機を見るに敏感で、常に地形・状況に即して陣営を置く。(演義では描かれない個性。)諸葛亮は、張郃を警戒したという。
・陳寿は五将(張遼、楽進、于禁、張郃、徐晃)をまとめて評する。「曹操の武勲を助けた将の中でも、この5人が最も優秀だった。」
・更に、張郃を評して言う。「臨機応変の才があった。また、こう記す。「評判(臨機応変)を裏付ける逸話は、あまり残っていない。恐らく、記録に遺漏があるのだろう。」