トップページ>後漢帝国の繁栄>
四代目以降の皇帝は、概ね低年齢で即位。
外戚(皇后・太后の一族)が皇帝に代わり、実権を持ちました。
儒教はまず、「一族の者と親和すること」を重視する。そして、「その愛情を遠い者にも及ぼす」という教えを持つ。(従って、「一族の者すら愛せない者は、世の人々を思いやれない」ということになる。)
章帝は基本的に、しっかりした人物。その在位中、竇氏は勝手な振舞いはできず。
しかし88年、章帝は死去し、和帝(当時10歳)が即位。以後、竇氏は権勢を振るう。
当時、朝廷の儒家官僚は二つに分裂。三輔の出身者は竇氏を支持し、南方の出身者と対立する。(ここでの南方とは、河南尹、南陽郡、潁川(えいせん)郡、汝南郡など。)
外戚政治は、儒教体制の枠組に入らない。(外戚に徳があるとは、当然限らない。)儒家官僚は本来、己のアイデンティティに従い、外戚を抑制すべきだが。
まず、竇氏ら外戚は、概ね地方豪族の出身。外戚の出身地では、その一族が他の豪族を圧倒している。
一方、儒家官僚も、主に地方豪族の出身。三輔の豪族の出身者たちは、当然、竇氏には逆らいがたい。
また、儒家であっても、豪族という側面を持つ以上、地元の利権は常に考える。同郷出身の外戚を支持することは、豪族の本分に適合する。儒家としての立場より、それを優先することがあった。
専売は基本、豪族の利殖行為を妨げる。豪族出身の竇憲は、専売の停止をもって家業興隆・権勢強化を図った。
専売は元々、非常時の手段。財政が十分なら、その停止は自然な政策。実際、竇憲が専売を停止してのち、特に事態の悪化はない。
しかし、竇憲の行動原理は、あくまで私欲がメイン。権勢を強めたあと、全国の貪欲な豪族と連なり、搾取、圧迫を繰り返す。政治は大きく乱れ、農民たちは日々虐げられた。(竇氏派の儒家官僚も、こういう事態は予測していなかっただろう。)
竇憲はまた、政争を好む。あるとき、刺客を放って政敵を殺害させ、それが発覚する。竇憲は罪に問われたが、贖罪のため匈奴討伐を願い出た。(89年。)
和帝はこれを許可し、竇憲は出征。大きな戦果を挙げ、大将軍に任じられる。(同年。)
91年、竇憲は再び匈奴を破り、更に権勢を増した。しかし、その栄華は、長くは続かなかった。
そのすぐ翌年、竇憲は反乱を疑われ、自殺に追い込まれる。和帝と宦官の陰謀による、とされる。
この鄧氏は竇憲と異なり、民力の養成に力を入れる。加えて、人材の発掘に心を砕いたという。(後者には、政略的理由もあったが。)
一方、西方では羌族(きょうぞく)が反乱する。鄧氏は手こずったが、羌族の指導者が死去し、漢は危難を脱する。
鄧氏は人事において、それまで冷遇されていた地域(益州、淮南など)に目を向ける。地方に留まっていた名士(儒家名士)を招き、中央の官界に入らせる。
一つは勿論、己の派閥を強化するため。当時、朝廷の儒家官僚は、一部の地域(三輔、南陽など)の出身者が中心だった。彼等の権勢は強く、鄧氏はそれに対抗する必要あり。
鄧氏は新興の地域に目を向け、(恩を売ることで)味方に付けた。そして日々、国政に尽力。(昼夜、政務に励んだという。)人材発掘は、政略のためだけではなかった。
まず、鄧氏派の儒家官僚も、外戚体制は本意ではない。あくまで朝臣になる手段として、鄧氏に与(くみ)したに過ぎない。本来は、(反鄧氏派と同じく)礼教体制を理想としている。
また、鄧氏は決して、悪い統治は行っていない。(むしろ善政に努めている。)反鄧氏派の儒家官僚は、鄧氏の権勢を批判したが、その政治姿勢は認めていた。
以上のため、鄧氏派と反鄧氏派は、さほどは争わず。
しかし、専横が長く続くと、安帝の不満は大きくなる。鄧太后死後、安帝は宦官の力を借り、鄧氏弾圧にかかる。結果、鄧隲は自殺(121年)。鄧氏を本当に憎んでいたのは、儒者たちではなく、皇帝であった。
以後は、宦官が台頭することとなる。儒家官僚たちは、派閥を超えて協力し、共通の敵(宦官)と対する。以後、儒家官僚の力は強まり、朝廷での地位が確立された。(これは、元はと言えば、鄧氏があちこちの名士を登用したおかげ。)
この梁商は、慎ましい人物。常々、儒家官僚・宦官の双方を立てる。また、貧民の救済に心を砕いた。
一方、宦官の中の強硬派は、梁商と融和せず、あくまで排そうとする。順帝は梁商を信任し、反梁商の宦官を弾圧する。
141年、梁商は死去。同年、子の梁冀(りょうき)が大将軍に就任。
やがて、梁冀は実権を掌握し、横暴さを発揮。ただ権力欲、金銭欲のままに動く(梁商と正反対)。順帝はまもなく、梁冀排除を試みたが、成功せず。
144年、順帝は死去。沖帝(2歳)が跡を継いだが、翌年病死する。その後、8歳の質帝が即位。翌年、梁冀を非難し、毒殺される。146年、桓帝(15歳)が即位。梁冀は専横を続け、政敵を次々殺害する。
梁冀の悪名は、後漢時代屈指。かつての竇憲(とうけん)を超える。
159年、桓帝は宦官たちを集め、梁冀殺害を画策。単超(宦官の一人)が兵を率い、梁冀の館を包囲する。梁冀は自殺し、朝廷にひとまず平穏が戻った。
桓帝は儒家官僚より、宦官を信任していたと思われる。儒家官僚たちは、皇帝を至尊とするが、その意思を(信念に従って)絶えず制限。彼等の多くは、皇帝の心情を鑑みるより、「道理」に従って言動を行う。
皇帝にとって、宦官は気心の知れた存在。その上、彼等は現実主義者で、基本的に頼りになった。
しかし、宦官は貪欲な者が多い。その台頭に伴い、国政は再び乱れていく。
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儒教政治 ~後漢の基本体制~
外戚の時代 ~善政と悪政~
地方社会 ~太守、豪族、三老~
変動 ~清流派と濁流派~
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外戚の時代 ~善政と悪政~
四代目以降の皇帝は、概ね低年齢で即位。
外戚(皇后・太后の一族)が皇帝に代わり、実権を持ちました。
章帝と外戚
章帝期、外戚の竇憲(とうけん)が台頭。その原因として、章帝が儒家だったことが挙げられる。儒教はまず、「一族の者と親和すること」を重視する。そして、「その愛情を遠い者にも及ぼす」という教えを持つ。(従って、「一族の者すら愛せない者は、世の人々を思いやれない」ということになる。)
章帝は基本的に、しっかりした人物。その在位中、竇氏は勝手な振舞いはできず。
しかし88年、章帝は死去し、和帝(当時10歳)が即位。以後、竇氏は権勢を振るう。
竇憲の時代1
竇憲は、右扶風(ゆうふふう)郡の出身。右扶風郡は三輔の一つ。三輔とは長安周辺の地域(三つの郡)を指す。当時、朝廷の儒家官僚は二つに分裂。三輔の出身者は竇氏を支持し、南方の出身者と対立する。(ここでの南方とは、河南尹、南陽郡、潁川(えいせん)郡、汝南郡など。)
外戚政治は、儒教体制の枠組に入らない。(外戚に徳があるとは、当然限らない。)儒家官僚は本来、己のアイデンティティに従い、外戚を抑制すべきだが。
まず、竇氏ら外戚は、概ね地方豪族の出身。外戚の出身地では、その一族が他の豪族を圧倒している。
一方、儒家官僚も、主に地方豪族の出身。三輔の豪族の出身者たちは、当然、竇氏には逆らいがたい。
また、儒家であっても、豪族という側面を持つ以上、地元の利権は常に考える。同郷出身の外戚を支持することは、豪族の本分に適合する。儒家としての立場より、それを優先することがあった。
竇憲の時代2
章帝の時代、朝廷は塩・鉄の専売を行っていた。和帝はこれを停止。当然、竇憲の意によるだろう。(和帝はまだ年少。)専売は基本、豪族の利殖行為を妨げる。豪族出身の竇憲は、専売の停止をもって家業興隆・権勢強化を図った。
専売は元々、非常時の手段。財政が十分なら、その停止は自然な政策。実際、竇憲が専売を停止してのち、特に事態の悪化はない。
しかし、竇憲の行動原理は、あくまで私欲がメイン。権勢を強めたあと、全国の貪欲な豪族と連なり、搾取、圧迫を繰り返す。政治は大きく乱れ、農民たちは日々虐げられた。(竇氏派の儒家官僚も、こういう事態は予測していなかっただろう。)
竇憲はまた、政争を好む。あるとき、刺客を放って政敵を殺害させ、それが発覚する。竇憲は罪に問われたが、贖罪のため匈奴討伐を願い出た。(89年。)
和帝はこれを許可し、竇憲は出征。大きな戦果を挙げ、大将軍に任じられる。(同年。)
91年、竇憲は再び匈奴を破り、更に権勢を増した。しかし、その栄華は、長くは続かなかった。
そのすぐ翌年、竇憲は反乱を疑われ、自殺に追い込まれる。和帝と宦官の陰謀による、とされる。
鄧氏の時代1
106年、安帝(六代皇帝)が即位する。この時代、鄧太后とその弟鄧隲(とうしつ)が台頭する。108年、鄧隲は大将軍に就任した。この鄧氏は竇憲と異なり、民力の養成に力を入れる。加えて、人材の発掘に心を砕いたという。(後者には、政略的理由もあったが。)
一方、西方では羌族(きょうぞく)が反乱する。鄧氏は手こずったが、羌族の指導者が死去し、漢は危難を脱する。
鄧氏は人事において、それまで冷遇されていた地域(益州、淮南など)に目を向ける。地方に留まっていた名士(儒家名士)を招き、中央の官界に入らせる。
一つは勿論、己の派閥を強化するため。当時、朝廷の儒家官僚は、一部の地域(三輔、南陽など)の出身者が中心だった。彼等の権勢は強く、鄧氏はそれに対抗する必要あり。
鄧氏は新興の地域に目を向け、(恩を売ることで)味方に付けた。そして日々、国政に尽力。(昼夜、政務に励んだという。)人材発掘は、政略のためだけではなかった。
鄧氏の時代2
朝廷の儒家官僚は、鄧氏派・反鄧氏派で二分される。しかし、彼等の間に、強い対立はなかった。まず、鄧氏派の儒家官僚も、外戚体制は本意ではない。あくまで朝臣になる手段として、鄧氏に与(くみ)したに過ぎない。本来は、(反鄧氏派と同じく)礼教体制を理想としている。
また、鄧氏は決して、悪い統治は行っていない。(むしろ善政に努めている。)反鄧氏派の儒家官僚は、鄧氏の権勢を批判したが、その政治姿勢は認めていた。
以上のため、鄧氏派と反鄧氏派は、さほどは争わず。
しかし、専横が長く続くと、安帝の不満は大きくなる。鄧太后死後、安帝は宦官の力を借り、鄧氏弾圧にかかる。結果、鄧隲は自殺(121年)。鄧氏を本当に憎んでいたのは、儒者たちではなく、皇帝であった。
以後は、宦官が台頭することとなる。儒家官僚たちは、派閥を超えて協力し、共通の敵(宦官)と対する。以後、儒家官僚の力は強まり、朝廷での地位が確立された。(これは、元はと言えば、鄧氏があちこちの名士を登用したおかげ。)
梁氏の時代1
125年、順帝(八代皇帝)が即位。132年、梁氏が皇后になる。その父梁商が大将軍に就任(134年)。この梁商は、慎ましい人物。常々、儒家官僚・宦官の双方を立てる。また、貧民の救済に心を砕いた。
一方、宦官の中の強硬派は、梁商と融和せず、あくまで排そうとする。順帝は梁商を信任し、反梁商の宦官を弾圧する。
141年、梁商は死去。同年、子の梁冀(りょうき)が大将軍に就任。
梁氏の時代2
梁冀は元来、遊び人として知られる。蹴鞠(けまり)、狩り、闘鶏、盤上ゲームなどを好んだ。やがて、梁冀は実権を掌握し、横暴さを発揮。ただ権力欲、金銭欲のままに動く(梁商と正反対)。順帝はまもなく、梁冀排除を試みたが、成功せず。
144年、順帝は死去。沖帝(2歳)が跡を継いだが、翌年病死する。その後、8歳の質帝が即位。翌年、梁冀を非難し、毒殺される。146年、桓帝(15歳)が即位。梁冀は専横を続け、政敵を次々殺害する。
梁冀の悪名は、後漢時代屈指。かつての竇憲(とうけん)を超える。
159年、桓帝は宦官たちを集め、梁冀殺害を画策。単超(宦官の一人)が兵を率い、梁冀の館を包囲する。梁冀は自殺し、朝廷にひとまず平穏が戻った。
桓帝は儒家官僚より、宦官を信任していたと思われる。儒家官僚たちは、皇帝を至尊とするが、その意思を(信念に従って)絶えず制限。彼等の多くは、皇帝の心情を鑑みるより、「道理」に従って言動を行う。
皇帝にとって、宦官は気心の知れた存在。その上、彼等は現実主義者で、基本的に頼りになった。
しかし、宦官は貪欲な者が多い。その台頭に伴い、国政は再び乱れていく。
儒教政治 ~後漢の基本体制~