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并州の出来事2 曹操の時代


梁習の活躍
 曹操は、梁習という人物を起用し、刺史の代行とする。(実質、刺史。成功したら、正式な刺史にするつもり。)州の中心部では、豪族が横暴を振るい、辺境には(漢に帰順した)異民族が住む。豪族に圧迫された者達は、時に異民族を頼り、その居住地に逃亡した。

 梁習は着任すると、豪族の抑制に重点を置く。まず、その指導者クラスの懐柔を開始。彼等を徐々に官界に誘い、本拠地から引き離した。
 また、残った者の中で、権勢がある者を軍に徴用。あるいは、冀州に移住させる。そして、抵抗する者達を討伐する。豪族の支配力は、十分に衰退した。
 以後、民百姓は官を頼りとし、日々農業に励む。こうして、并州は大いに復興を遂げる。梁習は、正式な刺史に任じられる。
 ある村の長老は、梁習を称え、「知る限り最高の刺史」と述懐したという。


 213年、曹操は州を再編。并州・幽州を冀州に、司隷・涼州を雍州に吸収させる。(つまり、州の数を減らした。中央集権が目的。)
 梁習は、并州が廃されたため、都督の従事(補佐官)に転じる。




辺境の様相
 梁習が行った改革は、州の中心部が対象。辺境の地域は除く。
 辺境地域とは、要するに、異民族との国境の近く。(また、領内にも、帰順した異民族が居住。)ここでの異民族とは、主に鮮卑と烏丸を指す。(この二族は北方(并州、幽州方面)に広く分布。)
 国外の異民族は、州内に時々侵入する。また、一度帰順しても、後に反乱するケースは多かった。

 あるとき、鮮卑の育延が交易を望み、梁習に会見を求める。育延は、横暴な性格で知られる。しばしば州内に侵入し、治安を乱していた。会見の際、育延が不穏な動きを見せると、梁習は捕らえて殺害する。
 また、あるとき、烏丸の王が離反。任地を離れ、本拠地に戻ろうとする。梁習は鮮卑の騎馬隊を起用し、追跡を命じる。鮮卑は烏丸王を射殺し、混乱は未然に防がれた。
 このように、梁習の目は辺境にも行き届き、異民族対策に余念はない。


 しかし、北西の諸郡では、そもそも民が離散していた。土地は荒れ放題で、手の施しようのない状態だったという。
 215年、曹操は定襄・雲中・五原・朔方の四郡を廃止。代わりに、新興郡という郡を設置する。(新興郡の場所は、雁門郡と太原郡の間。)
 この新興郡の下に、四つの県(定襄・雲中・五原・朔方)を作る。(四郡からの流民を、新たにここに所属させた。)
 また、上郡は雍州に編入されたが(213年)、結局廃止される(時期不詳)。




魏王朝成立後
 220年、曹丕が即位する。曹丕は、司隷、涼州、并州、幽州を復活させる。
 また、梁習が再び并州刺史に就任。計20年以上、州の統治に尽力したが、ずっと清貧の生活を続けたという。


 一方、牽招が雁門太守に任じられる。雁門郡は、北東の辺境に位置する。後漢時代は、并州に所属。魏では冀州に所属。

 牽招はかつて、田豫と共に昌平県(幽州広陽郡)に駐在し、異民族と対した。両者とも、名将で名政治家。田豫は撹乱、牽招は懐柔に力を入れ、一帯を鎮撫した。
 牽招はこの雁門でも、軍事、民事双方で活躍し、大いに治績を挙げる。教育にも力を入れ、太学(都の国立学校)への留学も奨励。


 曹芳の時代、田豫が并州刺史となる。田豫は異民族に畏怖、敬愛されていたため、辺境地帯はすっかり静まる。
 後には、陳泰、孫礼が并州刺史を務める。(順番は陳泰が先。)陳泰は知将で、性格は清廉。(名臣陳羣(ちんぐん)の子でもある。)孫礼は義気と策謀を備え、地方の鎮撫に実績があった。(田豫、牽招に似た人物。)

 263年、司馬昭が司隷・并州の一帯に「晋国」を築き、晋公となる。(晋国は魏王朝の藩国。)翌年、司馬昭は、晋王に昇格する。  




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