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司隷の地図

 後漢後期(180年頃)の地図です。
 県地図では、首都を網羅しています。(郡の首都、及び、州の首都。)




1、郡地図
司隷

魏郡→冀州 /陳留郡→兗州 /上郡・西河郡・太原郡・上党郡→并州 /武都郡・漢陽郡・安定郡・北地郡→涼州 /漢中郡→益州 /南陽郡→荊州 /潁川郡→豫州 



2、県地図
司隷



3、県地図(郡の境界付加)
司隷


出来事まとめ
 1、何進と袁氏 2、辺境勢力 3、復興期

 4、曹丕・曹叡の時代 5、新時代




<凡例>
・太線は州の境界、細線は郡の境界。
・県地図において、■は、郡庁が存在する県。(つまり、郡の首都。)州庁も存在する場合は、と表記。
・州庁のみ存在する県は、と表記。郡庁も州庁もない県(普通の県)は、●と表記。


<読み方>
1、郡名
 京兆:けいちょう /左馮翊:さふうよく /右扶風:ゆうふふう /潁川(豫州):えいせん

2、県名
 安邑:あんゆう /槐里:かいり



<補足>
・洛陽県の西に「函谷関」、弘農県の西に「潼(とう)関」。(前者は河南尹、後者は弘農郡。)
・洛陽県の南西に「梁県」。(河南尹の南西部。)
・長安県の西、渭水の南に「郿(び)県」。(右扶風郡。)
・右扶風郡の西部、渭水の北に「陳倉県」。
・右扶風郡の南東部、渭水の南に「五丈原」。




首都まとめ
 郡の首都(治所)をまとめます。郡庁の所在地で、太守がここに赴任します。
 また、「尹」は、郡と同等です。太守の代わりに、尹官が治めます。(例えば、河南尹(地名)を治めるのは、河南尹(官職名)です。)
 左に郡名や尹名(五十音順)。右に首都名。

 河東郡・・・安邑
 河南尹・・・洛陽
 京兆尹・・・長安
 河内郡・・・野王
 弘農郡・・・弘農
 左馮翊郡・・・高陵
 右扶風郡・・・槐里




180年以後の変遷
・189年、右扶風郡の西部が分離され、「漢安郡」が作られる。(何進の時代。)後に「漢興郡」と改称(213年、曹操の時代)。
・190年、董卓が州の首都を長安に移す。
・194年、右扶風郡の北東部、涼州安定郡の南部が分離。合わせて「新平郡」が作られ、司隷に置かれる。(李傕の時代。)
・194年、涼州西部が分離され、雍州が作られる。(李傕の時代。)
・196年、州の首都が洛陽に戻る。

・213年、曹操が雍州、司隷、涼州を合わせて、「雍州」とする。司隷、涼州は廃止。
・220年、曹丕が司隷、涼州を復活させる。新しい雍州は、後漢の司隷の西部・後漢の涼州の東部。(前者は、京兆尹、左馮翊郡、右扶風郡、新平郡、漢興郡を指す。)他は元通り、司隷、涼州に所属。
・漢興郡が廃止され、右扶風郡に統合。(魏の時代。細かい時期は不明。)
・247年、河東郡の北部が分離され、「平陽郡」が作られる。(曹芳の時代。)




出身者
 左に郡名(尹名)。右に出身者。(いずれも五十音順。)

 河東郡:賈逵(かき)賈充関羽
     毌丘倹(かんきゅうけん)、徐晃
 河南尹:龐義(ほうぎ)
 京兆尹:杜畿杜預
 河内郡:韓浩、司馬懿(しばい)
     司馬師司馬昭、司馬朗、
 弘農郡:楊修、楊彪(ようひょう)
 左馮翊郡:張既(ちょうき)
 右扶風郡:馬超馬騰法正孟達




参考資料:「中国歴史地図集2」他


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