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グホン チュウショウ
虞翻 仲翔
  
~江東屈指の教養・気骨~

 呉の官僚、学者。「易経」の研究に努める。また、王朗、続いて孫策に仕え、的確に補佐する。孫権の時代も活躍したが、次第に疎まれ、交州に流される。



王朗を補佐
・揚州の会稽郡出身。会稽は文化の地。日々学問を学ぶ。
・ある者が、虞翻の兄を訪問。しかし、虞翻の元には行かない。虞翻は手紙を送り付け、「琥珀(こはく)は塵芥(じんかい)を引き付けず、磁石は曲がった針を拒絶するといいます。貴方が私の元に来なかったのは、当然と言えるでしょう。」その者は非凡さを感じ取り、虞翻の評判は高まる。(なお、孔融の少年期にも、似たようなエピソードがある。)


王朗の元で、功曹を務める。(王朗は会稽太守。功曹は人事官だが、実質、太守直近の補佐官。)
・あるとき、孫策が会稽に進軍する。虞翻は王朗に避難を勧めたが、聞き入れられず。(王朗は、「漢の臣として抗戦すべき」と考えたが、虞翻は現実的な選択を提示。)しばらくして、王朗は敗走。孫策が代わって会稽太守となる。
・王朗を守備しつつ、東の侯官県に辿り着く。侯官の長官は拒絶し、城門を閉じたが、虞翻がこれを説き伏せる。

・王朗は虞翻に言う。「貴公には老母がいる。会稽郡に戻られるべきだ。」虞翻はこの言葉に従う。その後、孫策から礼遇され、功曹に任じられる。




孫策時代1
・孫策は狩りを好み、虞翻はこれを諌める。「太守(孫策)は人を使いこなすことに長け、雑多な集団を強力な軍団に作り変え、この点では漢の高祖(劉邦)でも及びません。しかしながら、軽々しく外出なされると、下の者に大きな心配をかけます。また、王者たるもの、重々しく振舞わなければ、威厳が損なわれます。」孫策は答える。「言はもっともだが、私には野外が性に合う。」


・孫策が山越を討伐し、虞翻もこれに随行する。(山越とは、山地の異民族の総称。)孫策は兵を放って追撃。自身は一人、馬を歩ませる。虞翻は山の中で、ばったり孫策に出くわし、「一人では危険です」と述べる。また、こう助言する。「ここは草木が邪魔で、馬を走らせるには不都合です。馬を手綱で引きつつ、弓矢を身から離さず、徒歩で行かれるのがよいでしょう。また、私は矛の使い手ですから、先導をさせて頂きます。」

・やがて、開けた場所に出る。虞翻は言う。「馬にお乗りになってください。私は足が達者ですので、徒歩で付いていけます。」その内に、軍楽隊の一人に出くわす。孫策はその者から角笛を借り、自らこれを吹き、孫策の将兵が集まってくる。(以上は、虞翻の人物像がよく分かるエピソードだが、「三国志演義」では描かれない。)

・孫策に従い転戦する。三つの郡が平定される。




孫策時代2
・孫策が黄祖(江夏太守)を討伐し、虞翻も随行する。孫策は帰還途中、豫章郡の併呑を考える。虞翻は、太守華歆(かきん)の元に遣わされ、帰順の説得を開始する。
・虞翻「貴方の名声は、王朗殿と比べてどうでしょうか?」華歆「及ばない。」虞翻「貴方の郡の軍事力は、孫策殿と比べてどうでしょうか?」華歆「及ばない。」ここで、虞翻は言う。「名声が王朗殿に及ばないというのは、ご謙遜に過ぎません。しかし、軍事力が孫策殿に及ばないのは、全くその通りでございます。」その後、華歆は帰順を決める。

・会稽郡に戻り、功曹の任に当たる。その後、富春県の長に任じられる。(富春県は呉郡。孫堅・孫策の出身地。)


・孫策が刺客に殺害される。地方の高官は皆、喪に駆け付けようとする。しかし、虞翻は言う。「山越を警戒する必要がある。城(県ごとに置かれた城邑)を放置すべきではない。」そこで、任地において喪に服し、他の県もそれに従う。




忠義と失脚
・孫権(孫策の弟)が家督を継ぐ。孫策の従弟・孫暠(そんこう)が納得せず、軍を率いて会稽に向かう。虞翻は守りを固め、孫暠と対する。「我々官民は、ただ孫権様のために、こうして城を守っております。孫権様にとって害になるものは、全て取り除く覚悟があります。」(虞翻は、義士として強い信念あり。)孫暠はほどなく立ち去る。

・茂才に推挙される。(茂才とは、官僚の候補枠。)その後、朝廷から侍御史(監察官)に任じられたが、出仕せず。曹操も虞翻を招聘し、己の役所(司空府)に置こうとしたが、虞翻は言う。「曹操は盗賊だ。曹操に仕え、我が家名を汚す気はない。」(曹操は漢王朝を支配し、独自の法治を敷いている。虞翻は儒士で、漢の忠臣。)

「易経」の註釈書を著述する。(易学は、儒学の一分野。物事の摂理を探究する。)まず孔融に進呈し、孔融はこれを絶賛。その後、張紘(ちょうこう)からも高く評価される。
・「虞翻別伝」によると、虞翻は「易経」の註釈書を一通り完成させ、朝廷に献上。同時に上奏し、易学の研究史を論じる。

・不遇の人材(丁覧と徐陵)を見出し、即座に交友を結ぶ。その後盛んに推薦し、世に出られるよう取り計らう。(時期不詳。)両者共、地方官として治績を挙げる。


騎都尉に任じられる。(以後、孫権の本拠地(呉県)に移る。)
・度々、孫権に諫言する。また、協調性がなく、同僚の不興を買う。
・涇(けい)県に強制移住させられる。(涇県は丹陽郡所属。やや未開地。)




荊州攻略
・呂蒙(呉の将)が、関羽(荊州に駐屯)の攻略を開始。呂蒙は、虞翻に医術の心得があることを思い、また、「虞翻を復帰させるいい機会」とも考える。かくて、虞翻は呂蒙の推薦を受け、荊州攻略に随行する。


・当時、蜀将の麋芳(びほう)、士仁が、それぞれ要地を守備。(いずれも、関羽と不仲。)呂蒙はまず、士仁の守る公安県に進軍。虞翻は士仁に書簡を送り、降伏を勧める。「貴方の敵は、我々だけではありません。関羽からも害される可能性があります。」(絶妙な説得文句。)かくて、士仁は降伏する。

・呂蒙は続いて、麋芳の守る江陵県に向かう。麋芳は、士仁が既に降ったのを知り、同じく降伏を決める。呂蒙はその後、城外で宴を開こうとする。虞翻は、呂蒙に警戒を促す。「麋芳の降伏は信用できるでしょう。しかし、城中の者全てがそうとは限りません。直ちに城内に進軍し、要所を押さえるべきです。」呂蒙はこれに従う。一方、城内では実際に、奇襲の計画があったという。しかし、呉軍の素早い行動で頓挫。(虞翻は、性格は剛直だが、視点は常に柔軟。現実がよく見える。)




独特の性格
・荊州攻防戦の際、魏の于禁が関羽に降伏。(洪水が大きな敗因。)後に、身柄は孫権の元に渡る。孫権は、名将だった于禁を礼遇し、あるとき馬を並べて語り合う。虞翻はこのとき、于禁を罵倒する。「降伏者の分際で、何故ご主君と馬を並べるのか。」更に鞭を振り上げ、于禁を打とうとし、孫権は大声で制止。(虞翻はこの頃から、言動が常軌を逸してくる。)

・孫権が呉王に封じられ、宴が開かれる。虞翻は孫権に酒を勧められると、酔った振りをし、杯を受け取らない。孫権がその場を離れ、ふと虞翻の方を見ると、素面(しらふ)で席に座している。孫権は大いに怒り、自ら切り付けようとする。周りの取り成しにより、事なきを得る。

・あるとき船に乗って出かけ、麋芳の大船と出くわす。麋芳の部下から、方向を変えることを求められると、麋芳の不忠を述べて貶める。(なお、虞翻自身が、降伏説得に関わっている。)


・宴の席で、孫権と張昭が神仙について話す。虞翻は張昭を指差し、こう言う。「彼のように、神仙の存在を言う者は、皆死人だ。神仙はこの世にはいない(生者なら神仙を語れまい)。」孫権は怒り、虞翻は交州(南方の未開の地)に流される。(孫権は、興を削がれることを人一倍嫌う。虞翻への日々の苛立ちが、ここで爆発した。)




遠方の地で
・「虞翻別伝」によると、交州到着後、こう述べている。「私は生来、人と折り合うことができぬ。主君のご機嫌をも損ね、罪人となってしまった。私はこのまま、世界の果てに埋没するのか。生きていても、語り合う相手がいない。死んだときは、青蠅しか弔いに来ないだろう。天下のどこかに一人でも、私を深く理解してくれる者がいれば、思い残すことはないのだが。」(虞翻は、教養がずば抜け、義へのこだわりも強い。孤高の人ほど、内心では理解者を求めている。)

・都から遠く離れた地でも、日々学問の追究に励み、「老子」「論語」などに註釈を付ける。その一方で、盛んに教授し、門下生は数百人に上る。


・「虞翻別伝」によると、孫権が即位した際、虞翻は遠方より書簡を送る。その中で自らの過ちを認め、賛辞の言葉を並べる。
・遠方にありながら、常に国政のことを考える。例えば、「五渓(武陵郡)の異民族を警戒すべき」、「遼東とは国交を結ぶべきではない」など。
・あるとき、これらの意見を書簡にし、呂岱(交州刺史)に託す。しかし、呂岱が(孫権に送るかどうか)迷っている内に、虞翻に恨みを持つ者が孫権に讒言(ざんげん)。虞翻は、(交州内の)別の地に強制移住となる。


・遼東の公孫淵が呉に使者を出し、臣従を願い出る。孫権は承知し、使者を送る。しかし、公孫淵は心変わりし、使者を殺害する。孫権は言う。「あのとき虞翻がいてくれたら、何が何でも止めてくれただろう。」
・その後、孫権は交州に使いを出し、虞翻を呼び戻そうとする。しかし、虞翻は既に死去。(享年70歳。)虞翻の子供達は帰還し、活躍の場所を与えられる。
・虞翻の交州での生活は、十余年に及んだという。


陳寿は虞翻を評して言う。「古の狂直(過度に実直を貫く)であり、この末世に災いを被るのは不可避であった。しかし、孫権にも、度量に欠けたところがあった。」




王朗 張紘 孔融 


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