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180年以後の変遷
・196年、豫章郡の南部が分離され、「廬陵郡」が作られる。(孫策の時代。)
・208年、荊州江夏郡の東部が分離され、揚州に編入。「蘄春(きしゅん)郡」と命名される。(孫権の時代。)
・208年、丹陽郡の南部が分離され、「新都郡」が作られる。(孫権の時代。)
・210年、豫章郡の北東部が分離され、「鄱陽(はよう)郡」が作られる。(孫権の時代。)
・213年、孫権が秣陵を「建業」と改称する。
・九江郡が「淮南国」と改称。(曹丕の時代。)後に「淮南郡」となる。


・221年、廬江郡、豫章郡の一部が、荊州江夏郡に編入。
・229年、呉王朝が成立。廬江郡は、魏と呉で分離。北部が魏で、首都は六安(りくあん)。南部が呉で、首都は皖(かん)。また、淮南郡の南端部、及び広陵郡の南端部は、呉の廬江郡に吸収。

・257年、会稽郡の北東部が分離され、「臨海郡」が作られる。また、豫章郡の東部が分離され、「臨川郡」が作られる。(いずれも孫亮の時代。)
・260年、会稽郡の南部が分離され、「建安郡」が作られる。(孫皓の時代。)
・266年、会稽郡の南西部が分離され、「東陽郡」が作られる。(孫皓の時代。)





三国時代の地図(260年頃)
 北部は魏領。中部・南部は呉領。(太線が境界線。)

揚州

下邳国・広陵郡→徐州 /弋陽郡・安豊郡・汝南郡・譙国→豫州 /江夏郡・長沙郡・湘東郡・桂陽郡→荊州 /南海郡→交州

①廬江郡(魏) ②廬江郡(呉)


<読み方>
 蘄春:きしゅん 鄱陽:はよう /廬陵:ろりょう /下邳:かひ /弋陽:よくよう /譙:しょう




参考資料:「中国歴史地図集3」他


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