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ジョショ ゲンチョク
徐庶 元直
  
~元武侠の学士~

 劉備配下の官僚。元々は武侠者だったが、荊州で諸葛亮と共に学ぶ。諸葛亮の才を見抜き、劉備に積極的に売り込み、共々出仕する。やがて母が曹操軍に捕らわれ、以後曹操に仕え、次第に昇進する。



武侠時代・更生
・豫州(よしゅう)の潁川(えいせん)郡出身。庶民の家の生まれ。元の名は福。
・撃剣を得意とし、任侠活動をする。

・あるとき仇討ちをし、役人に捕らえられる。しかし、終始身元を喋らない。そこで、役人は徐庶を柱に縛り付け、車に載せて町内を連れ回し、身元を知っている者を探す。誰も告げ口しようとせず、やがて仲間に救われる。

・改心して学問に励む。
・同じ学舎に通う学生たちは、徐庶の前歴を知ると、関わりを避けようとする。そこで徐庶は、あえて謙虚に振舞い、進んで雑用を行う。その内に、学生の一人・石韜(せきとう)と親密になる。




孔明を推薦・魏で出世
・中原は動乱に陥る。徐庶は石韜共々、荊州に赴く。そこで、諸葛亮(孔明)と親密になる。

・劉備が荊州に来る。あるとき、徐庶は劉備に会いに行き、しきりに諸葛亮を売り込む。(即ち、劉備の飛躍のきっかけを作った。)諸葛亮共々、劉備の配下に入る。
・やがて、曹操が荊州に進軍。劉備は攻撃を受け、江東の孫権を頼る。徐庶は、母が曹操に捕らえられ、曹操に仕えることになる。


・魏王朝において、右中郎将、御史中丞まで上る。中郎将は近衛隊を率い、皇居を警護する。御史中丞は上奏文の監査、及び官吏の弾劾に当たる。(御史台という政庁の長で、俸禄は尚書令と並ぶ。)一方、石韜も郡太守となり、後に典農校尉となる。




孔明からの評価
・上に記したように、徐庶と石韜は、いずれも高位を得ている。しかし、諸葛亮は、彼等をもっと評価していたらしい。諸葛亮はあるとき、こう述べている。「魏は特別人材が多いのだろうか。何故あの二人は(重臣として)用いられないのか。」(しかし、無頼の武侠者だった徐庶(家柄に恵まれなかった人物)が、後に大国の高級官僚。この時点で、かなりドラマ性がある。)

・諸葛亮は丞相になったとき、官吏たちに訓示。「自分と違う意見にも耳を貸し、案を改良することが大事だ」と説く。そして、こう続けている。「今まで、本当にそれができたのは、徐元直(徐庶)だけだった。私は彼を手本にしている。」
・なお、諸葛亮、徐庶が劉備の配下に入ったのは、207年のこと。曹操が荊州に来たのは、208年の八月。徐庶と諸葛亮は、半年から一年半くらい、劉備の元で同僚だったことになる。


・陳寿「三国志」には伝記がなく、陳寿評はない。「魏略」に伝記があり、「三国志」の裴松之註で引用されている。
・この魏略は、正史三国志同様、列伝の形態。徐庶とまとめて立伝されているのは、厳幹・李義・張既・游楚・梁習・趙儼・裴潜・韓宣の八人。(厳幹らは、いずれも魏の良臣。)




諸葛亮 龐統


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