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益州の出来事3 劉備到来


反逆

益州(劉備の進軍)

南鄭は漢中郡の首都。



 当時、曹操が華北を統治。一方、劉備が荊州に割拠。劉璋は、張松(配下の参謀)の進言により、劉備と結ぶことを決める。
 211年、劉璋は劉備を呼び寄せ、客将とした。巴郡太守の厳顔は、劉備の危険性を見抜き、嘆いたという。

 劉備はまず、涪(ふ)県で劉璋と会見。その後、北方の葭萌(かぼう)県に駐屯し、一帯で人心を得る。(葭萌県は、広漢郡所属。綿竹の北。)
 一方、張松が劉備と内通し、情報を流す。劉璋はこれを知り、張松を殺害する。212年、劉備は反乱し、益州の攻略を開始。


 当時の劉璋政権は、東州派閥が利権を握っている。彼等はそれを守るため、積極的に抗戦する。一方、土着豪族は戦意が欠如し、各地で降伏者が相次いだ。

 しかし、土着の益州人の中にも、黄権のような忠臣あり。恐らく、豪族の中でも、名家の出身。物欲よりも、義を重んじる。劉備招聘に反対し、劉璋に真剣に諫言。斥けられても背かず、広漢城を守り、劉備の軍を防ぎ通した。(広漢県は成都の東、涪の南。)
 また、王累という人物がいる。同じく益州人で、劉備招聘に反対。聞き入れられないと分かると、自決をもって諫めた。

 厳顔も、黄権・王累同様、土着の益州人。忠臣として江州城(江州県の県城)を守備し、張飛の大軍に抗戦する。結局敗北したが、張飛から厚遇された。




制圧
 劉備は、参謀龐統(ほうとう)の補佐の元、快進撃を続ける。綿竹城の李厳も帰服。(綿竹県は、涪(ふ)県と雒(らく)県の中間辺り。)

 劉璋は、子の劉循を雒城に遣わし、守備させる。(雒は成都の北西に位置。)一方、劉備は進軍を続け、やがて雒城に到達した。
 張任という人物が、劉循に従う。貧しい家の出だが、才覚によって州の従事にまで昇進。(従事とは、州の長官(刺史や牧)に直属の補佐官。)
 張任は端から、東州派閥・土着豪族の争いの外におり、ただ主君のために働く。忠勇を発揮し、劉備にも認められたという。やがて敗れ、降伏を拒否して刑死する。

 攻防は長期に渡り、その間に龐統は戦死する。対峙開始から一年後、劉備は遂に城を陥落させる。続いて、成都に向かって進軍した。


 鄭度(劉璋の参謀)が、焦土作戦を提案。劉璋は、「それは領主のすることではない」と拒否する。
 また、成都の官民は団結しており、徹底抗戦の気構えだったという。この記述を見る限り、成都の統治は、十分軌道に乗っていたのだろう。(劉備軍は、それを壊そうとする存在。)

 しかし、劉璋は、「これ以上の戦禍は避けたい」と述べる。劉璋は降伏を決め、劉備が新たな益州牧となる(214年)。劉璋は公安太守に任じられ、荊州へ移住。また、劉循、龐義も厚遇を受けた。




新時代開始
 劉備は荊州人士・益州人士の混合政権を築く。前者が中心で、諸葛亮がそのリーダー。

 ここで益州人士とは、土着の人々と、東州派閥(東からの移住者)を指す。どちらかと言えば、後者を優遇する。(元々の形勢を重視。)しかし、劉璋時代と異なり、十分バランスを取った。
 また、劉備は、諸葛亮に「蜀科」(刑法)を制定させる。法の元の平等を掲げ、権勢者同士の馴れ合いを排する。その結果、東州派閥の横暴は抑えられ、土着豪族は大きな不満を持たず。


 一方、財政面では、塩・鉄の専売に力を入れる。(益州は宝庫。)王連という人物を起用し、実務に当たらせた。




地方人事
 成都県には、益州の州庁、そして蜀郡の郡庁がある。つまり、益州牧、及び蜀郡太守が駐在する。
 蜀郡太守に任じられたのは、法正という人物。(元劉璋の部下。司隷出身。)法正は郡を治めると同時に、劉備(益州牧)の側で絶えず画策。更に、諸葛亮の元で、蜀科の制定に参加した。才は抜群だったが、性格は偏狭だったという。

 また、馬謖(ばしょく)が成都の県令に就任。この馬謖は、才気煥発で知られ、政務をてきぱき処理できる。後には、越巂(えつすい)郡の太守に就任。異民族への対策に当たった。
 越巂郡の東隣には、犍為(けんい)郡。李厳という人物が、ここの太守を務める。(元劉璋の部下。荊州出身。)李厳は軍事にも長け、二度反乱を鎮圧した。


 国境の巴西郡では、張飛が太守に任じられる。(首都は閬中(ろうちゅう)県。)主に守将の役割。魏軍の侵攻に備える。
 一方、南の巴郡では、廖立(りょうりつ)が太守を務める。才を誇り、形式を軽んじる性格。常々、劉備に気に入られていたという。
 また、向朗(しょうろう)が、巴西郡、牂牁(しょうか)郡の太守を歴任。(巴西太守となったのは、張飛の前かあとか不明。)この向朗は、能吏として定評のあった人物。


 また、劉備は広漢郡の北部を分け、新たに梓潼(しとう)郡を設立。霍峻(かくしゅん)をその太守に任じる。所領地は、梓潼県・葭萌(かぼう)県など数県。霍峻は、劉璋との戦役の際、寡勢で葭萌城を堅守した。
 他に、張翼という人物あり。梓潼郡、広漢郡、蜀郡で太守を歴任。次第に重鎮となる。




漢中の攻防

益州(漢中)

南鄭は漢中郡の首都。西に定軍山、その北西に陽平関(いずれも漢中郡)。
閬中(ろうちゅう)は巴西郡の首都。下弁は武都郡の首都。



 215年、曹操が漢中に進軍する。張魯は帰順を考えたが、弟の張衛が要害で抗戦する。曹操は劣勢になったが、逆襲して勝利。張魯は降伏し、その道教王国は終わった。
 但し、曹操は張魯を厚遇し、道教を保護する姿勢を見せる。(張衛にも、相応の地位を付与。)曹操は、儒教社会の打破を目指しており、道教は対抗馬になり得る。

 その後、曹操は夏侯淵(配下の名将)に命じ、漢中を守備させる。
 夏侯淵の配下には、同じく名将の張郃(ちょうこう)。あるとき、南下して巴西に入る。張飛は張郃と対峙し、奇襲をかけて撃退した。


 219年、劉備が漢中に進軍する。定軍山で対戦し、夏侯淵を討ち取り、漢中を奪い取る。(参謀の法正、武将の黄忠が活躍。)
 同年、劉備は曹操の本軍を撃退し、漢中王に就任する。法正が初代尚書令(秘書機関の長)。

 まもなく、劉備は成都に帰還する。その前に、魏延を漢中太守に任じ、国境の守備を一任。(魏延は当時、新進の将軍。益州攻略で活躍。)




蜀王朝成立
 荊州では、関羽が魏軍を追い込む。しかし、曹操は呉と手を結び、呉軍が関羽を殺害する(219年)。(呉は本来、蜀の味方だったが、関羽の勢威を警戒した。)これにより、劉備の領土は、益州のみとなる。
 220年、曹操が死去し、子の曹丕が跡を継ぐ。まもなく、曹丕は魏王朝を開いた(220年)。


 221年、劉備は漢王朝の後継を称し、蜀王朝を開く。首都は成都。また、諸葛亮を丞相に任じ、国政に当たらせる。

 更に、鄧方を庲降(らいこう)都督に任命。益州南部の諸事を統括させる。(庲降とは、「帰順者を受け入れる」の意。)鄧方は、荊州出身の能臣。
 庲降都督は、複数の郡を治め、その点は州牧と同じ。益州南部は未開地が多く、蜀王朝は一括して管理した。
 鄧方の死後は、李恢(りかい)が後任となる。李恢は、益州南部の出身。策謀、軍才に長ける。

 同221年、劉備は呉征伐に赴き、名将陸遜と対する。(関羽の復讐、及び荊州奪還のため。)長期戦になったが、翌年敗北し、白帝県に撤退する。
 223年、劉備は病により死去。子の劉禅が跡を継ぎ、二代目皇帝となった。




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