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霊帝はやがて、郤倹を罷免。代わりに、劉焉という人物が、益州牧に任じられる。(188年。)劉焉は、皇族出身の名官僚。
同じ頃、馬相(ばそう)が黄巾を名乗り、綿竹県で蜂起する。やがて、馬相は州都の雒(らく)県に侵攻し、 郤倹を殺害した。(これらは、罷免の情報が伝わる前だろう。)なお、雒は、綿竹の南西に位置。両県とも、広漢郡に所属。
馬相は更に勢力を強め、蜀郡、犍為郡の各地を荒らす。続いて、巴郡太守を殺害し、自ら天子を名乗る。その後、益州従事の賈龍(かりゅう)が討伐に赴き、馬相を敗死させた。(この賈龍は、有力豪族でもある。)
劉焉は賈龍の協力を受け、雒県に着任。まもなく、州都を綿竹県に移転させる。
劉焉は、中原から遠いこの地で、専横を振るいたい。そのためには、まず、土着の豪族が邪魔になる。(また、益州豪族の中には、横暴な家系も多い。かつては、郤倹の悪政に加担した。)
一方、東からの流民が、当時多数存在。劉焉は彼等を取り込み、精強な軍団を編成し、豪族への対抗馬とした。
劉焉はその後、豪族の一部を粛清する。その結果、賈龍が反乱を起こす。劉焉は羌(きょう)族の部隊を従え、これを討ち取り、反対勢力は壊滅。恩人の犠牲の上で、劉焉は強大化した。
劉焉はまた、「五斗米道」(道教団体)に目を付け、教祖の張魯を手なずける。張魯は劉焉の指令を受け、漢中郡に進軍し、これを陥落させた。
劉焉は皇族。そして、かなりのインテリ。官僚としても、長年経験を積んでいる。また、中国は古来、文民統制の国。後漢時代は、取り分けその傾向が強い。劉焉はそんな中、野心を大きくした。益州は中原に比べると、文化が成熟しておらず、(後漢の価値観では)教養人が思い通りにして構わない。
劉焉は外来集団を用い、土着豪族を排し、君主権力を確立。その上で、儒教政治を行き渡らせ、領内をよく治めた。その原動力には、私的な野心もあったことは否めない。
劉焉はまた、宮殿や儀礼を整え、帝のような振舞いをした。(少し袁術を連想させる。)
192年、董卓は殺害され、残党の李傕らが実権を握る。この李傕らも、辺境の出身。横暴な性格。
194年、関中の馬騰・韓遂が、李傕らを討伐する。劉焉は馬騰らと通じ、援軍を送った。王商という人物が、事前に諫めたが、劉焉は聞かず。結局、馬騰らは敗れ、劉焉の長子劉範、次子劉誕が敗死する。
劉焉の野心は、これによって頓挫する。更に、綿竹城で火災が起こり、劉焉は州庁を成都県(蜀郡)に移す(194年)。成都は、綿竹の南西に位置し、中原から遠ざかる形。劉焉の気力は、既に衰えていた。
194年、劉焉は死去する。趙韙(ちょうい)・王商が劉璋(劉焉の四子)を推薦し、跡継ぎに据える。(趙韙・王商は、いずれも、土着豪族の出身。)劉璋は柔和な性格のため、劉焉のような弾圧は行わない。それを見越しての擁立。
その後反乱が起きたが、劉璋、趙韙はこれを鎮圧する。劉璋は朝廷から、益州牧に任命される(194年)。
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1、劉焉到来 2、劉璋の苦闘 3、劉備到来
4、諸葛亮の手腕 5、劉禅の為政
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益州の出来事1 劉焉到来
州の情勢
霊帝の時代、郤倹(げきけん)が益州刺史に任じられる。郤倹は着任後、暴政を行い、民情は日々悪化する。霊帝はやがて、郤倹を罷免。代わりに、劉焉という人物が、益州牧に任じられる。(188年。)劉焉は、皇族出身の名官僚。
同じ頃、馬相(ばそう)が黄巾を名乗り、綿竹県で蜂起する。やがて、馬相は州都の雒(らく)県に侵攻し、 郤倹を殺害した。(これらは、罷免の情報が伝わる前だろう。)なお、雒は、綿竹の南西に位置。両県とも、広漢郡に所属。
馬相は更に勢力を強め、蜀郡、犍為郡の各地を荒らす。続いて、巴郡太守を殺害し、自ら天子を名乗る。その後、益州従事の賈龍(かりゅう)が討伐に赴き、馬相を敗死させた。(この賈龍は、有力豪族でもある。)
劉焉は賈龍の協力を受け、雒県に着任。まもなく、州都を綿竹県に移転させる。
野心と手腕
劉焉はまず、仁政に努め、民情を回復させる。しかし、劉焉には、野心家という面もある。劉焉は、中原から遠いこの地で、専横を振るいたい。そのためには、まず、土着の豪族が邪魔になる。(また、益州豪族の中には、横暴な家系も多い。かつては、郤倹の悪政に加担した。)
一方、東からの流民が、当時多数存在。劉焉は彼等を取り込み、精強な軍団を編成し、豪族への対抗馬とした。
劉焉はその後、豪族の一部を粛清する。その結果、賈龍が反乱を起こす。劉焉は羌(きょう)族の部隊を従え、これを討ち取り、反対勢力は壊滅。恩人の犠牲の上で、劉焉は強大化した。
劉焉はまた、「五斗米道」(道教団体)に目を付け、教祖の張魯を手なずける。張魯は劉焉の指令を受け、漢中郡に進軍し、これを陥落させた。
劉焉は皇族。そして、かなりのインテリ。官僚としても、長年経験を積んでいる。また、中国は古来、文民統制の国。後漢時代は、取り分けその傾向が強い。劉焉はそんな中、野心を大きくした。益州は中原に比べると、文化が成熟しておらず、(後漢の価値観では)教養人が思い通りにして構わない。
劉焉は外来集団を用い、土着豪族を排し、君主権力を確立。その上で、儒教政治を行き渡らせ、領内をよく治めた。その原動力には、私的な野心もあったことは否めない。
暴走と頓挫
当時の長安では、董卓が朝廷を支配。辺境出身の暴君。劉焉は、この董卓の命令にも従わず、いつも言を左右にする。劉焉はまた、宮殿や儀礼を整え、帝のような振舞いをした。(少し袁術を連想させる。)
192年、董卓は殺害され、残党の李傕らが実権を握る。この李傕らも、辺境の出身。横暴な性格。
194年、関中の馬騰・韓遂が、李傕らを討伐する。劉焉は馬騰らと通じ、援軍を送った。王商という人物が、事前に諫めたが、劉焉は聞かず。結局、馬騰らは敗れ、劉焉の長子劉範、次子劉誕が敗死する。
劉焉の野心は、これによって頓挫する。更に、綿竹城で火災が起こり、劉焉は州庁を成都県(蜀郡)に移す(194年)。成都は、綿竹の南西に位置し、中原から遠ざかる形。劉焉の気力は、既に衰えていた。
194年、劉焉は死去する。趙韙(ちょうい)・王商が劉璋(劉焉の四子)を推薦し、跡継ぎに据える。(趙韙・王商は、いずれも、土着豪族の出身。)劉璋は柔和な性格のため、劉焉のような弾圧は行わない。それを見越しての擁立。
その後反乱が起きたが、劉璋、趙韙はこれを鎮圧する。劉璋は朝廷から、益州牧に任命される(194年)。
1、劉焉到来 2、劉璋の苦闘 3、劉備到来
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