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益州の出来事5 劉禅の為政


蒋琬・費禕の時代
 朝廷では、蒋琬(しょうえん)、続いて費禕(ひい)が実権を握る。劉禅はこの二人を信頼し、国政を任せる。
 両者は諸葛亮を手本とし、国力の回復、安定を重視する。また、いずれも、漢中に長期間駐在。国境地帯をよく整え、魏に隙を見せず。
 一方、董允(董和の子)が侍中となり、日々劉禅の行いを正す。(侍中とは、帝の政治顧問。)董允はまた、宦官の黄皓(こうこう)の台頭を阻止した。

 蒋琬は大らかな性格で、国事、朝臣を無難に取りまとめる。費禕の方は、実直な性格で、自ら多くの政務をこなす。また、董允は厳格な性格で、朝政の乱れを絶えず監視した。
 諸葛亮と彼等3人、合わせて「四相」と呼ばれる。


 また、劉禅は、呂乂(りょがい)を蜀郡太守に任じる。この呂乂は、劉備が益州牧となったあと、初仕官。才覚を認められ、各地の県令、郡太守を務め、善政を敷いた。
 諸葛亮が死去した頃、蜀郡には外来者が多く、秩序と治安が次第に低下。呂乂はそこで、教育を重点的に行い、彼等に方向性を明示する。結果、多くの者が改心したという。

 一方、張嶷(ちょうぎょく)が越巂(えつすい)郡の太守となる。(240年。)張嶷は巴西郡の出身で、蜀屈指の奇才。
 当時の越巂は、異民族の勢いが盛んで、諸部族が幅を利かせる。張嶷は策略、武断を織り交ぜ、一帯を鎮撫する。また、異民族の心性をよく解し、大きな人望を得た。




親政時代
 蒋琬、費禕の時代が終わると、劉禅が親政を行う。(正確には、費禕の時代に開始したが、大半は費禕が主導。)また、譙周(しょうしゅう)が側近として補佐。譙周は博識、見識をもって知られた人物。

 劉禅は皇帝として、基本的に無難だった。親政を始めてからも、朝廷で大きな騒乱は起きず、領内では目立った反乱なし。また、譙周は上奏文の中で、「陛下は人を使うことに長けておられます」と述べている。(その一方で、遊楽好きを諫言した。)


 侍中(政治顧問)には、陳祗(ちんし)という人物が就任。(豫州出身。)多芸で、蜀学(天文、占いなど)の素養もあったが、あまり儒士というタイプではない。柔軟、社交的な性格で、黄皓とも調和した。
 諸葛亮の時代なら、こういうタイプの人物は、恐らく重用されなかっただろう。劉禅色が出ている人事。




親政時代2

益州(姜維の時代)

漢城、楽城、関城、長城は城塞。剣閣は関の名前。他は全て県名。



 当時の蜀には、姜維(きょうい)という将軍あり。元は魏臣だが、諸葛亮の第一次北伐時、蜀に帰服。ずば抜けた将才を持つ。

 諸葛亮死後、姜維は度々北伐を行い、一進一退を繰り返す。また、廖化が陰平太守を務め、随時姜維に力添えした。(陰平郡は州の北西部に位置(元・広漢属国)。郡の首都は陰平県(元・陰平道県)。)また、張翼は常に姜維に随行し、絶えず補佐した。
 当時、蜀の国防は、姜維が一手に担っていた。

 しかし、北伐は、次第に泥沼化する。魏の方が兵は多く、鄧艾、郭淮、陳泰など名将も存在。また、姜維は国力の疲弊を顧みず、張翼の諫めも聞かない。(廖化もまた、度重なる北伐に反対だったという。)それでも、劉禅と蜀王朝は、姜維の行動を容認し続けた。(勿論、蜀が魏と張り合えたのは、姜維のおかげが大きいが。)
 また、朝廷では、宦官の黄皓が台頭。黄皓は、それほど悪辣ではなかったが、日々権勢欲を発揮。


 土着の益州人の心は、徐々に蜀王朝から離れていく。蜀帝国はそもそも、荊州人が作った国。益州人にとって、本来よそ者政権。恩恵を与えてくれなければ、忠誠は速やかに失われる。
 元々、益州人の気質は、荊州人と相容れない。例えば、荊州人は政治の議論を好み、人為的に道理を定める。一方、益州人は自然の中で育ち、イデオロギーにもこだわらない。
 荊州人が来なければ、魏との戦争も起こらなかった。漢帝国の復興も、益州人は別に望んでいない。




蜀の滅亡
 劉禅は、土着の益州人の心を繋ぎ止めなかった。それが、蜀衰退の大きな要因と思われる。
 かつて、諸葛亮は荊州学(荊州の儒学)に則して為政したが、国の方向性をはっきり明示。実際、しっかりした統治を行った。そのため、益州人たちは、(相応の不満はあったにせよ)基本的に忠誠を持っていた。
 しかし、劉禅には明確な方向性が欠け、統治者として頼りない。


 蜀帝国は、国政、国防が噛み合わず、次第に行き詰まる。
 263年、魏軍は蜀侵攻を開始。
鍾会、鄧艾(いずれも知将)が進軍する。姜維・廖化・張翼が剣閣を堅守し、鍾会の侵攻を防ぐ。一方、鄧艾が陰平郡に入り、山地を切り開き、首都成都に接近した。

 蜀の朝廷では、降伏か南方に亡命か、意見が分かれる。譙周(益州生まれ)が降伏を説き、劉禅はこれに従う。かくて、魏が蜀を併呑(263年)。
 同年、魏は益州北部を分離し、新たに「梁州」を作った。

 一方、姜維は鍾会をそそのかし、共に魏に反逆。しかし、鍾会の兵に反乱され、姜維・張翼・鍾会は討死する(264年)。


 その後、劉禅は洛陽に移住し、列侯に封じられる。これにより、戦後処理は全て終結。益州は魏の支配の元、安寧の時代に入った。蜀の滅亡は、時勢だったという見方もある。




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