トップページ三国志総合事典(正史)州地図兗州の地図

兗州の出来事2 三城防衛


夏侯惇の尽力

兗州(反乱時)



 当時、鄄城(けんじょう)県には、荀彧(じゅんいく)が駐在。鄄城県は、曹操の本拠地。荀彧は、曹操の参謀の筆頭で、曹操の留守を任されていた。
 一方、夏侯惇が、濮陽県に駐在している。(鄄城県の西に位置。)


 諸県は呂布に呼応し、鄄城県も揺らぎ出す。荀彧はまず、夏侯惇に使者を出し、救援を要請する。夏侯惇は、曹操の親族の武将。裏切りの心配がない上、軍人として頼りになる。

 夏侯惇は軍を率い、鄄城県に向かう。その途中、呂布の本隊と遭遇戦になる。すぐには勝負は付かず、呂布はひとまず撤退。留守の濮陽県を狙い、これを奪取する。続いて、夏侯惇に一団を遣わし、偽の降伏を申し入れた。
 これに対し、夏侯惇はつい油断する。一帯は依然、曹操軍の勢力圏で、夏侯惇は基本的に優位。(また、元来真面目な性格で、この手の騙し合いには不慣れ。)その結果捕らえられ、人質となる。しかし、韓浩(夏侯惇の部下)が一味を討ち、夏侯惇を救出。

 その後、夏侯惇は、鄄城県に到着する。城の治安を取り締まり、曹操の家族の保護も行う。また、城の防備も、夏侯惇が主導したと思われる。




荀彧と程昱
 豫州刺史の郭貢が、軍を率いて鄄城に向かう。荀彧は自ら会見に赴き、冷静に情勢を説き、中立の立場を取らせることに成功する。

 また、荀彧の元には、程昱(ていいく)という人物あり。策謀に長けた巨漢。東郡出身の名士で、地元の豪族と繋がりが強い。
 荀彧は、この程昱を范県(東郡)に遣わす。程昱は県長と会見し、味方に付けることに成功。
 他にも、東阿県(同じく東郡)が忠誠を誓う。

 その後、荀彧は三県を取りまとめ、呂布の軍を防ぎ通す。(三県とは鄄城、范、東阿。)曹操はやがて、鄄城に帰還。




平定戦
 曹洪(曹操の従弟)が軍糧を調達し、曹操は態勢を立て直す。
 曹操は、呂布の討伐に取り掛かる。(194年。)呂布の騎兵隊は強く、曹操は当初劣勢になる。戦況が膠着した頃、たまたま蝗が発生し、両軍ともに撤退。
 翌年、曹操は改めて討伐を行う。奇襲をもって勝利し、呂布を兗州から退けた。

 一方、張超(張邈の弟)が、雍丘県(陳留郡)に駐屯している。(張邈の方は、陳留県(陳留郡の首都)を拠点とする。)
 張邈は、袁術の元へ救援要請に行ったが、途中で部下に殺害される。張超はその頃、曹操に敗れて自害する。(いずれも195年。)


 また、曹洪が、呂布を支持する十余県を討伐。これを全て陥落させる。
 曹操親族の名将といえば、まず曹仁と夏侯淵だが、曹洪もかなりの将才を持っていた。(なお、夏侯惇は、何より組織の統括に長ける。)




その後
 曹操は、州内に再び支配を確立。地盤固めに努める。
 夏侯惇が陳留、済陰で太守を歴任。(夏侯惇は知識、教養も備える。)陳留では治水を行い、開墾を指導する。兗州人の信頼を取り戻すため、懸命に再建に努めたと思われる。
 また、夏侯淵(夏侯惇の従弟)も、陳留、潁川の太守になったという記述がある。(潁川は豫州。)時期は不詳。

 夏侯惇は後に、河南尹(洛陽周辺の長官)に昇進(199年)。一方、程昱が済陰太守となる。恐らく夏侯惇の後任。
 程昱はまた、兗州の都督も兼ね、州の軍政をまとめた。程昱は、基本は参謀だが、活躍は多方面に渡る。

 また、曹操は呂虔を起用し、泰山郡の太守に任じる。当時郡内では、不服従民が山地に居住。呂虔は彼等に土地を与え、農業に従事させる。常に信頼関係を重んじ、次第に民心を得た。
 呂虔はまた、彼等の中から屈強な者を選び、軍に編入する。結果、軍備も州随一となる。


 曹操が冀州を制してのち、司馬朗が兗州刺史となる。この司馬朗は、司馬懿の兄に当たる。仁徳の人で、州内をよく教化し、高い評判を得た。

 更にのち、魏の中期、鄧艾が兗州刺史となる。奇才の持ち主で、農政と用兵に長ける。着任後、収穫向上を目指し、存分に手腕を発揮。




⇐前へ

1、曹操と陳宮 2、三城防衛


トップページ三国志総合事典(正史)州地図兗州の地図