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徐州の出来事3 収束期


臧覇一派
 曹操は、臧覇を抜擢し、琅琊国の相に任じる。(琅琊国は、徐州北部。)更に、臧覇の子飼いの部下・孫観を起用し、北海郡(青州)の太守とする。
 また、徐州の他の諸地も、臧覇の一派に任せる。利城太守は呉敦、東莞(とうかん)太守は尹礼、城陽太守は孫康(孫観の兄)。この三郡は、曹操が新設した郡。
 かくて、臧覇は徐州・青州を広くまとめる。

 曹操はかつて、徐州で殺戮を行い、人望を失っている。法による秩序を掲げても、徐州人には納得しがたい。
 一方、臧覇は徐州の武侠。(出身は隣の兗(えん)州。)信と義を行動原理とし、長らく一勢力を有していた。
 臧覇一派に徐州・青州を任せたことは、絶妙な人事だったと思われる。混沌の地域ほど、人間同士の信頼関係が物を言う。侠は当時、地方統治において、有効な政治手段になり得た。官僚的統制とは別に、大小の社会勢力(豪族や自衛集団)と義で交わり、それによって秩序を構築。

 なお、張紘があるとき、臧覇に書簡を送り、趙昱の遺族の面倒を頼んでいる。臧覇はこれを承諾。




昌豨の勢力
 臧覇の一派の中に、昌豨(しょうき)という人物あり。曹操に二州を任された一人だが、地方長官にはなっていない。
 199年、昌豨は反乱を起こす。理由は記されないが、待遇に不満があったのかも知れない。
 昌豨は、徐州東海郡に根を張り、何度か曹操軍を撃退する。官渡戦(200年)ののち、張遼(曹操の将)の討伐を受け、このときも防ぎ続ける。しかし、張遼の説得を受け、帰服する。206年、またも反乱し、于禁(曹操の将)に殺害される。

 「三国志演義」では、昌豨の反乱は特に描かれないが、規模は小さくなかったと思われる。




劉備造反
 袁術は寿春にあって、悪政を行い、次第に行き詰まる。199年、袁術は河北の袁紹を頼り、軍を連れて出発する。恐らく、徐州南、兗州を通る予定だった。
 当時、車冑(曹操の配下)が徐州刺史を務め、下邳国に駐在。車冑は軍事能力は高くない。また、兗州東部は、概ね手薄。要地の鄄城県すら、程昱が率いる七百の兵がいるのみ。

 そこで、曹操は、劉備を徐州に向かわせ、袁術を防がせる。袁術はかつて、広陵において、落ち目の劉備を破っている。今回は、袁術の方が落ち目。兵力、兵糧いずれも足りていない。結局、寿春の近くに留まり、ほどなく病死した。


 その後、劉備は曹操に反逆。車冑を襲撃し、これを殺害する。劉備は常々、曹操に警戒されていると感じ、配下を脱する機会を窺っていた。
 また、曹操は袁紹(河北の群雄)と対するため、そちらに兵を割く必要がある。劉備は、それを見越して反逆。

 劉備は、関羽に下邳県を任せ、自身は豫州小沛県に駐在。劉備は劉岱・王忠(曹操の将)の攻撃を防ぎ切ったが、曹操の本軍が来ると、袁紹の元へ逃亡する。また、関羽の方は、ひとまず曹操に帰服した。
 後に、曹操は、官渡(司隷河南尹)で袁紹を撃破(200年)。劉備は荊州の劉表を頼った。




臧覇と呂虔
 曹操は、臧覇を徐州刺史に任じる。(琅琊の国相から昇進。)臧覇は、州をまとめる一方、武将として呉軍と歴戦した。

 下邳(かひ)県では、武周という人物が令を務める。この武周は公正さを旨とし、自分の補佐官が罪を犯した際、厳しく追及。臧覇は感嘆する。(漢人社会は、役人同士の癒着が多い。武周はその風潮に甘んじず。)この逸話からは、臧覇の政治姿勢も分かる。


 曹丕が即位してのち、呂虔が徐州刺史となる。呂虔は古参の臣で、最初は曹操の従事(補佐官)を務め、反乱鎮圧でも活躍している。
 徐州刺史になる前は、泰山郡(兗州)の太守。領内に信義を行き渡らせ、不服従民たちを改心させた。(恐らく、臧覇に似た気質。)
 呂虔は徐州に着任後、民事を劉祥(補佐官)に一任する。人々はこれに対し、「賢人をよく信任し、あえて身を引いた」と称賛。
 後に利城郡(徐州)で反乱が起こり、太守が殺害される。(原因は不明。)呂虔はこれを討伐し、鎮圧する。

 なお、徐州の州都は、元々は郯(たん)県(東海郡)。後に劉備が下邳県(下邳国)に移し、魏では、彭城県(彭城国)が州都とされた。




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