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冀州の出来事3 曹操の為政


政治手腕
 曹操は、法治を徹底させ、豪族の力を抑制する。中央集権の確立、及び、公平な世の実現を目指した。
 曹操は以前より、屯田によって備蓄を得ている。袁紹と異なり、豪族に大きく頼る必要がなかった。
 また、豪族の中には、儒家の名家が多数。豪族の抑制は、儒家勢力の抑制にも繋がる。(曹操は、儒教が政治と強く関わり、人事が制約されるのを好まなかった。儒教自体を排したかった訳ではない。)

 208年、曹操は南下し、荊州に進出。長江に船団を並べ、江南の孫権と対する。しかし、赤壁で名将周瑜に敗れ、冀州に帰還する。(曹操は水戦は不慣れ。)


 210年、曹操は、鄴(ぎょう)県に銅雀台(どうじゃくだい)を築く。(宮殿の名前。)時々酒宴を催し、文人達が詩を披露。
 曹操は、「建安文学」という文化の主導者でもある。(「建安」は元号名。)詩の文化で、従来の形式に囚われず、個性と自由を重視する。この建安文学が普及すれば、儒教文化の抑制にも繋がる。




地域の統治者
 王修が魏郡太守に任じられる。王修は、袁譚の忠臣だった人物。また、魏郡は、鄴県(州の首都)を含む大事な郡。(曹操の人材起用は自在だった。)王修は福祉に力を入れ、一方では賞罰をはっきりさせ、高い評判を得た。
 後には、陳矯が魏郡太守に就任。果断な政治家で、簡略、迅速を旨とする。


 また、司馬朗が堂陽県(安平国)の長となる。(司馬朗は、司馬懿の兄。)県は州や郡に比べ、民との密着度が高い。司馬朗は人徳をもって統治し、民はあえて罪を犯そうとせず、刑罰が必要ないほどだったという。
 曹操は後に、司馬朗を兗州刺史に任命。ここでも治績を挙げる。  




魏国成立
 213年、曹操は魏公の爵位を授かり、魏国を建国。(漢王朝の藩国。)下に冀州の十郡を置く。
 その十郡とは、魏、趙、中山、常山、鉅鹿、安平、甘陵、平原。そして、河東、河内。また、治所は魏郡の鄴県。(なお、河東、河内は元々司隷に属していたが、この頃は冀州に所属。後に曹丕が魏王朝を開くと、この二郡は再び司隷に属する。)
 216年、曹操は魏王に昇格する。


 魏国成立時、曹操は荀攸を尚書令(秘書機関の長)に任じ、腹心とした。荀攸は、地味で賢明な人物。基本的に儒家だが、立ち振舞いは自然体で、道家を思わせる。
 曹操はまた、王朗を魏郡太守に任じる。正統派の儒家官僚で、教養と真心の人。かつては会稽太守を務め、領民から人望を得ていた。

 また、鍾繇(しょうよう)が魏国の大理(法務長官)に就任。常に正確な解明を心掛ける。
 鍾繇はやがて相国(首相)となり、王朗が大理の後任となる。王朗は情状を重んじ、仁徳をもって裁いたという。




曹丕と曹植
 曹操、曹丕(曹操の子)、曹植(曹丕の弟)は、いずれも文才を持つ。中でも、曹植は抜群だったという。
 また、「建安七子」という文人たちあり。(「建安文学」の中心グループ。)即ち、孔融、陳琳(ちんりん)、王粲(おうさん)ら七人。曹丕、曹植は彼等と日常的に交流した。


 曹操は、曹植に肩入れする。結果、曹丕と曹植の間で、跡目争いが発生。
 曹植の文学的才能は、儒教社会を打破し、新たな文化を構築できる。曹操は恐らく、そこに期待した。
 しかし、曹植は、性格が気まま過ぎる。曹操は結局、曹丕を跡継ぎに決定した。

 220年、曹操が死去し、曹丕が魏王となる。
 その後、首都の鄴県は、やや秩序が乱れる。(曹操が法を徹底させていたため、その反動と思われる。)曹丕はそこで、賈逵(かき)を鄴の県令、続いて魏郡太守に任じる。賈逵は、厳格な性格で知られた人物。領内をよく引き締め、秩序を回復させた。
 同220年、曹丕は魏王朝を開き、漢王朝に取って代わる。首都は洛陽県(司隷河南尹)。




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