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豫州の出来事2 曹操到来


許都誕生
 この頃、曹操の本拠地は兗(えん)州。196年、曹操は洛陽に赴き、帝を奉じる。(洛陽は、司隷河南尹の県。)
 同年、曹操は、許県(潁川郡)への遷都を実行する。以後、許県は「許都」とも呼称される。

 曹操はまず、荀彧を尚書令に任じる。尚書令とは、帝の秘書機関の長で、朝廷の文書管理など行う。(実質、朝政を統括。)以後、曹操は荀彧を通し、朝廷に支配を及ぼした。

 曹操はまた、許都で屯田を開始。(196年。)民に募集をかけ、荒地を耕作させる。(この形の屯田は「民屯」と呼ばれる。駐屯軍が耕作するのは「軍屯」。)多くの流民がこれに応募し、事は成功した。
 後に、許都の外に範囲を広げ、備蓄は十分になる。


 また、曹操はこの頃、領地拡大にも力を入れる。李通を汝南の西境に送り込み、拠点を築かせる。(196年。)周辺を実効支配。
 この李通は、武侠の人。故郷(荊州江夏郡)にいた頃、雄壮をもって知られる。また、家財を投げ出し、貧民を救ったことがある。

 汝南の大部分は、袁術の勢力圏。曹操はあるとき、郡の南西部を分離し、新たに陽安郡を作る。(198年。)また、李通を陽安都尉に任命し、地盤を固めさせた。(都尉とは軍事長官。)
 なお、太守の就任者は記されない。恐らく、在任者はなく、李通が太守の職務も執行。




陳国の様相
 汝南郡の北には、陳国がある。どの勢力にも属さない。
 この陳国の王は、劉寵という人物。弩(ど)のマニアで、射撃の達人。(弩は弓の強化版。)劉寵はかつて、大量の弩を調達し、強力な部隊を編成した。黄巾は恐れて近寄らず、多くの人々が陳国に避難した。

 やがて、袁術が橋蕤(きょうずい)と共に北上し、陳国の各地を攻略。袁術は袁嗣(えんし)を起用し、陳国の相とする。(袁嗣の素性は不明。)恐らく、朝廷の正式な任命はなし。
 また、首都の陳県には劉寵がいる。袁嗣は武平県(陳県の北東)に駐在。

 同じ頃、駱俊という人物も、陳国の相に在任。こちらは、正式な相だろう。首都陳県におり、善政を敷いて民心を得た。
 後に、曹操が武平に進軍し、袁嗣を降伏させる(196年)。


 197年、袁術が寿春(揚州)で帝を名乗る。浪費を重ね、まともに統治しない。軍糧が欠乏すると、劉寵に供出を求めたが、拒否される。
 袁術は、陳国に進軍する。劉寵と駱俊を誘い出し、刺客に殺害させ、陳国を占拠した。(この頃の袁術は、悪役でしかない。)
 その後、曹操が袁術を破り、陳国を平定する(197年)。二年後、袁術は死去。

 一方、劉備は曹操に帰服し、豫州牧に任じられる。(時期不詳。)198年、曹操は呂布(徐州)を討ち滅ぼす。(これにより、隣の豫州も安定。)
 曹操は、袁渙(えんかん)を起用し、梁国の相に任じる。(梁国は、陳国の北東に接する。すぐ北に兗州。)この袁渙は、徳義の人。筋道を立てて為政し、領民から信望を得る。(なお、袁姓だが、袁紹、袁術の一族ではない。)




劉備と汝南
 袁紹は河北を制し、続いて曹操と対する。袁紹は、汝南にも目を向け、取り込みにかかる。
 汝南には、袁家の郎党が散在する。元々は、袁紹派、袁術派に分裂。袁紹が遠方の冀州を拠点にすると、袁術の影響力が強くなった。
 袁術の死後、その傘下だった者達は、自ずと袁紹派になる。(表面上は曹操に帰服。)

 袁紹は、劉備を派遣し、汝南の劉辟と合流させる。(劉備は当時、袁紹の客将。)劉備らが諸県を攻略すると、多くの県はこれに呼応。
 劉備らは、汝南一帯を拠点とし、曹操の背後を撹乱する。曹操は、名将曹仁(曹操の従弟でもある)を遣わし、劉備らを撃退させる。

 一方、陽安郡では、李通が曹操に忠義を貫く。反乱勢力(袁紹派)を全て破り、領内を鎮撫した。




汝南平定
 曹操は、満寵を汝南太守に任命。満寵は軍を指揮し、郡内を次々平定する。袁家の郎党は離散し、皆農耕に従事した。

 袁紹は、官渡(司隷河南尹)で曹操と対する。一方、劉備は再び汝南に遣わされ、共都(元黄巾)と結託。
 袁紹は途中まで優勢だったが、結局敗れる。曹操は、劉備への対処に取り掛かる。劉備は蔡陽(曹操の将)を破り、これを討ち取ったが、曹操本軍を避けて逃走。荊州の劉表の元に行く。


 曹操が荊州(劉表領)に進軍し、満寵はこれに随行する。汝南太守は、一時解任。
 また、この頃、李通が汝南太守に任じられる。(恐らく、満寵の後任。)陽安郡は汝南郡に吸収。
 李通は汝南に着任後、不服従民を破り、郡内を平定する。しばらくのち、満寵が汝南太守に復帰。




地方長官の活躍
 曹丕の時代、賈逵(かき)が豫州刺史となる。厳格な儒士で、策謀にも長ける。
 賈逵は着任すると、堤防、運河を大々的に構築。これによって、軍備と農事を共に充実させる。また、常々規律を重んじ、不正をしっかり取り締まった。


 曹叡の時代、満寵が豫州刺史となる。汝南太守と兼任。
 しばらくのち、満寵は揚州の都督となる。満寵が揚州に去る際、汝南の多くの人々が、これに付いて行こうとした。
 満寵は賢明、果断な現実主義者。相当、頼りにされていたのだろう。


 司馬師の時代、鄧艾が汝南太守となる。鄧艾はかつて、司馬懿に見出され、次第に重鎮となった人物。汝南に着任後、領内の荒地を開墾し、官民共に豊かになる。鄧艾は、地方官としても一流だった。
 なお、鄧艾は南陽(荊州)の生まれ。育ちは汝南。




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