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180年以後の変遷
・188年頃、劉焉が州の首都を綿竹県に移す。
・194年、劉焉が州の首都を成都県に移す。
・195年、巴郡が三分割され、北東部は「固陵郡」、南部は「永寧郡」、北西部が巴郡となる。(劉璋が実行。)
・201年、巴郡など三郡は、改めて再編。北東部は「巴東郡」、北西部は「巴西郡」、南東部は「巴東属国」、南西部が巴郡となる。(劉璋が実行。)また、犍為郡が再編され、東部が巴郡に吸収(時期不詳)。

・213年、犍為郡の東部が分離され、「江陽郡」が作られる。(劉璋の時代。)
・張魯の時代、漢中郡が「漢寧郡」と改称される。(張魯が太守に就任。)後に張魯が曹操に降ると、名称は漢中郡に戻る。
・214年、蜀郡属国が「漢嘉郡」と改称。(劉璋の時代。)


・216年、巴東属国が涪陵(ふりょう)郡と改称。(劉備の時代。)
・217年、蜀郡の北部が分離され、「汶(びん)山郡」が作られる。同年、広漢郡の北部が分離され、「梓潼(しとう)郡」が作られる。(いずれも劉備の時代。)
・221年、犍為属国が「朱提郡」と改称。(劉備の時代。)

・224年、広漢属国が「陰平郡」と改称。(諸葛亮の時代。)陰平郡の首都は陰平県。(陰平道県(広漢属国の首都)を改称。)
・225年、益州郡が「建寧郡」と改称。首都も、滇池県から味県に移る。続いて、永昌郡の北部、建寧郡の西部が分離され、合わせて「雲南郡」が作られる。また、牂牁(しょうか)郡の南部が分離され、「興古(こうこ)郡」が作られる。一方、広漢郡の東部が分離され、「東広漢郡」が作られる。(いずれも諸葛亮が実行。)
・第三次北伐(229年)ののち、武都郡(当時雍州)が益州所属となる。
・263年、蜀王朝が滅亡し、魏は益州の北部を分離。新たに「梁州」を作る。中部辺りの巴郡・涪陵郡は梁州に所属、蜀郡は益州に所属。なお、東広漢郡は廃止され、広漢郡に統合(所属は梁州)。





三国時代の地図(260年頃)
益州

隴西郡・南安郡・天水郡・広魏郡・右扶風郡→雍州 /魏興郡・上庸郡・建平郡・武陵郡→荊州 /鬱林郡・交趾郡→交州

①蜀郡 ②広漢郡 ③東広漢郡 ④梓潼郡 ⑤漢中郡 ⑥巴東郡 ⑦涪陵郡


<読み方>
 汶山:びんざん /犍為:けんい /越巂:えつすい /牂牁:しょうか /興古:こうこ /梓潼:しとう /涪陵:ふりょう /隴西:ろうせい /右扶風:ゆうふふう /交趾:こうし 




参考資料:「中国歴史地図集3」他


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