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トキ ハクコウ
魏の官僚。荀彧に評価される。高幹反乱時、河東太守となり、内部工作で勝利に貢献する。その後、郡の統治に取り掛かり、大いに民心を得る。
・京兆の功曹となる。功曹は長官の補佐役で、人事に広く関わる。
・鄭県の令を代行。(功曹と兼任。)数百人を自ら裁く。緻密ではなかったが、要点を掴むのが上手かったという。
・孝廉に推挙される。(孝廉とは、官僚の候補枠。)漢中府の丞(補佐官)に就任。(漢中の郡府の丞。)
・動乱が起こると、荊州に避難する。
・継母が死去し、その遺体を運びつつ、郷里に戻る。その途中、盗賊の集団に襲われる。同行の者は皆逃げたが、杜畿は動かず。盗賊達が弓矢を構えると、杜畿は言う。「私は何も持っておらぬ。矢を射てどうするのだ。」盗賊達は立ち去る。
・張時は、杜畿の大雑把な性格に不満を持ち、「功曹に向いていない」と言う。杜畿は秘かに、周りの者に言う。「私は功曹には向かないが、河東の太守にはふさわしい。」(張時は河東郡の出身。「いずれ、張時の出身地を治めてみせる」という意。)
・荀彧(曹操の参謀)に推挙され、司空府に配属される。(司空は曹操。民政大臣。)
・護羌(ごきょう)校尉、西平郡(涼州)の太守に任じられる。(軍官と地方長官を兼任。西平には羌族が居住。)
・夏侯惇(曹操の将)が河東に向かう。杜畿の部下が、「大軍(夏侯惇の軍)の到着を待ち、共に河東を討伐すべきです」と言う。しかし杜機は、討伐は後回しにすべきとする。
・まず、こう述べる。「河東の人々は、皆が本心から反乱に加わった訳ではなく、善なる者もたくさんいるだろう。しかし、彼等には中心人物がいない。もし今、我々が兵を向けたら、彼等はどうしていいか分からず、結局衛固らに従うしかない。城内の者は皆、一丸となって防戦するに違いない。これに勝利できなければ、周辺の地域も衛固らに呼応する。勝利できても、一郡の人民を傷つけることになる。」
・続いて、こう述べる。「衛固らは、表向きは勅命を尊重しているから、新しい太守に害は加えないだろう。しかも、衛固は決断力がないから、しばらくは、ぐずぐずしているに違いない。私はその間に、計略を定める。」(なお、杜畿と衛固は、旧知の間柄。互いに軽んじていたという。)
・衛固が大軍を集めようとする。杜畿は、わざと誤った策を述べる。「民の心を動揺させてはならない。少しずつ集めるのがよかろう。」衛固らはこれに従い、兵の徴用に数十日かかる。その上、担当官は少数の兵しか集めず、余った費用を着服する。(強権を示さなかった結果、部下の統制が緩んだ。)
・杜畿はもう一つ、偽りの献策をする。「人は家のことが気にかかるものだ。何度かに分けて、将校や役人に休暇を与え、家に帰らせるのがよい。」衛固らは、人心を失うことを恐れ、この提案に従う。帰宅者たちの中で、反乱に(内心)反対している者達は、各県に連絡して杜畿と通じさせる。(衛固らは元から、人心を十分掴んでいなかった。不服従者を自由にさせたことで、活動の隙を与える結果となった。)一方、忠誠を持つ者達は、分散されたために弱体化。
・杜畿は城から出奔し、各県を巡回。合計、四千の兵を手に入れる。衛固らはこれに攻撃をかけたが、杜畿は防ぎ通す。その内に、夏侯惇の軍が到着し、衛固らは殺害される。
・あるとき、二組の住民が互いに訴訟し、告発し合う。杜畿は、自ら彼等に会いに行き、根本から道理を説明。その後、「まだ納得いかない点があれば、改めて役所まで来い」と言い渡す。村落の長老(民のまとめ役)は、この話を聞き、彼等を叱って言う。「世には、こんな為政者もおられるのだ。その教えに従わないでどうするのだ。」これ以後、訴訟は減ったという。
・あるとき、張時に再会する。(杜畿が京兆の功曹(人事官)だった頃の長官。)張時は感嘆。
・配下の諸県に布告し、孝行の子、貞婦などを推挙させ、その労役を免除する。また、牛・馬を調達し、住民達に割り当てる。皆が農業に励み、家々は豊かになる。
・教育に取り掛かる。まず、軍事訓練(自衛の訓練)を行う。また、開校して儒学を学ばせる。自ら経書を手に、民に教授したという。
・関中の馬超、韓遂らが反乱し、曹操はこれを討伐する。杜畿の治める河東は、関中に接していたが、反乱への呼応者は一人も出ない。また、杜畿は、多量の軍糧をそつなく輸送する。(陰の功労者。)馬超らはやがて敗れる。
・曹操は後に、漢中の張魯を討伐する。杜畿はまた輸送に当たったが、領民達は自発的に作業に当たり、逃亡者は一人も出ない。張魯はやがて敗れる。
・少しのち、再び河東郡を任される。計十六年河東にいたが、治績は第一だったという。
・曹丕(文帝)が魏王朝を開く。杜畿は朝廷に入り、尚書に任じられる。
・司隷校尉を代行し、首都圏をまとめる。
・曹丕が呉を征伐した際、尚書僕射(しょうしょぼくや)に任じられる。(僕射とは次官。)曹丕が留守の間、朝廷の政務を取り仕切る。
・曹丕が許昌に行幸した際、再び留守を預かる。
・詔勅を受け、帝の船を建造し、試運転をする。大風により転覆し、死亡する。曹丕は涙を流す。
・子の杜恕(とじょ)が跡を継ぎ、やはり名声を博する。孫の杜預は晋の重鎮となり、呉を討ち滅ぼす。
・陳寿は杜畿を評して言う。「寛大と厳格がよく調和し、恩恵をもって人民を安んじた。」
劉馥 司馬朗 賈逵
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トキ ハクコウ
杜畿 伯侯
~大らかな賢者~
魏の官僚。荀彧に評価される。高幹反乱時、河東太守となり、内部工作で勝利に貢献する。その後、郡の統治に取り掛かり、大いに民心を得る。
初期
・司隷の京兆出身。若い頃父を失い、継母から仕打ちを受ける。しかし、孝行を貫いたという。
・京兆の功曹となる。功曹は長官の補佐役で、人事に広く関わる。
・鄭県の令を代行。(功曹と兼任。)数百人を自ら裁く。緻密ではなかったが、要点を掴むのが上手かったという。
・孝廉に推挙される。(孝廉とは、官僚の候補枠。)漢中府の丞(補佐官)に就任。(漢中の郡府の丞。)
・動乱が起こると、荊州に避難する。
・継母が死去し、その遺体を運びつつ、郷里に戻る。その途中、盗賊の集団に襲われる。同行の者は皆逃げたが、杜畿は動かず。盗賊達が弓矢を構えると、杜畿は言う。「私は何も持っておらぬ。矢を射てどうするのだ。」盗賊達は立ち去る。
再仕官・推挙
・京兆の尹(長官)の張時は、杜畿と旧知。杜畿は、京兆の功曹に任じられる。(二度目の就任。)時期は不詳。
・張時は、杜畿の大雑把な性格に不満を持ち、「功曹に向いていない」と言う。杜畿は秘かに、周りの者に言う。「私は功曹には向かないが、河東の太守にはふさわしい。」(張時は河東郡の出身。「いずれ、張時の出身地を治めてみせる」という意。)
・荀彧(曹操の参謀)に推挙され、司空府に配属される。(司空は曹操。民政大臣。)
・護羌(ごきょう)校尉、西平郡(涼州)の太守に任じられる。(軍官と地方長官を兼任。西平には羌族が居住。)
河東の反乱
・高幹(袁紹の甥)が反乱し、河東郡(首都は安邑県)の周辺を荒らす。(高幹は一時曹操に服していたが、独立を図った。)一方、衛固と范先(河東の有力者)が、高幹への呼応を考える。同じ頃、河東太守の王邑は、たまたま朝廷から招聘される。杜畿は荀彧の推挙により、河東郡の新しい太守に任じられる。
・夏侯惇(曹操の将)が河東に向かう。杜畿の部下が、「大軍(夏侯惇の軍)の到着を待ち、共に河東を討伐すべきです」と言う。しかし杜機は、討伐は後回しにすべきとする。
・まず、こう述べる。「河東の人々は、皆が本心から反乱に加わった訳ではなく、善なる者もたくさんいるだろう。しかし、彼等には中心人物がいない。もし今、我々が兵を向けたら、彼等はどうしていいか分からず、結局衛固らに従うしかない。城内の者は皆、一丸となって防戦するに違いない。これに勝利できなければ、周辺の地域も衛固らに呼応する。勝利できても、一郡の人民を傷つけることになる。」
・続いて、こう述べる。「衛固らは、表向きは勅命を尊重しているから、新しい太守に害は加えないだろう。しかも、衛固は決断力がないから、しばらくは、ぐずぐずしているに違いない。私はその間に、計略を定める。」(なお、杜畿と衛固は、旧知の間柄。互いに軽んじていたという。)
河東平定
・抜け道を通り、城に到着する。(軍を連れず、味方を偽装。)衛固らを持ち上げ、功曹に任じられる。
・衛固が大軍を集めようとする。杜畿は、わざと誤った策を述べる。「民の心を動揺させてはならない。少しずつ集めるのがよかろう。」衛固らはこれに従い、兵の徴用に数十日かかる。その上、担当官は少数の兵しか集めず、余った費用を着服する。(強権を示さなかった結果、部下の統制が緩んだ。)
・杜畿はもう一つ、偽りの献策をする。「人は家のことが気にかかるものだ。何度かに分けて、将校や役人に休暇を与え、家に帰らせるのがよい。」衛固らは、人心を失うことを恐れ、この提案に従う。帰宅者たちの中で、反乱に(内心)反対している者達は、各県に連絡して杜畿と通じさせる。(衛固らは元から、人心を十分掴んでいなかった。不服従者を自由にさせたことで、活動の隙を与える結果となった。)一方、忠誠を持つ者達は、分散されたために弱体化。
・杜畿は城から出奔し、各県を巡回。合計、四千の兵を手に入れる。衛固らはこれに攻撃をかけたが、杜畿は防ぎ通す。その内に、夏侯惇の軍が到着し、衛固らは殺害される。
統治・輸送
・河東太守として、統治に取り掛かる。(首都は安邑県。)基本方針は、寛大と恩恵。民に対し、強い干渉はせず。
・あるとき、二組の住民が互いに訴訟し、告発し合う。杜畿は、自ら彼等に会いに行き、根本から道理を説明。その後、「まだ納得いかない点があれば、改めて役所まで来い」と言い渡す。村落の長老(民のまとめ役)は、この話を聞き、彼等を叱って言う。「世には、こんな為政者もおられるのだ。その教えに従わないでどうするのだ。」これ以後、訴訟は減ったという。
・あるとき、張時に再会する。(杜畿が京兆の功曹(人事官)だった頃の長官。)張時は感嘆。
・配下の諸県に布告し、孝行の子、貞婦などを推挙させ、その労役を免除する。また、牛・馬を調達し、住民達に割り当てる。皆が農業に励み、家々は豊かになる。
・教育に取り掛かる。まず、軍事訓練(自衛の訓練)を行う。また、開校して儒学を学ばせる。自ら経書を手に、民に教授したという。
・関中の馬超、韓遂らが反乱し、曹操はこれを討伐する。杜畿の治める河東は、関中に接していたが、反乱への呼応者は一人も出ない。また、杜畿は、多量の軍糧をそつなく輸送する。(陰の功労者。)馬超らはやがて敗れる。
・曹操は後に、漢中の張魯を討伐する。杜畿はまた輸送に当たったが、領民達は自発的に作業に当たり、逃亡者は一人も出ない。張魯はやがて敗れる。
魏国成立後
・曹操が魏国(漢王朝の藩国)を建国する。杜畿は、尚書(帝の秘書官)に任じられる。
・少しのち、再び河東郡を任される。計十六年河東にいたが、治績は第一だったという。
・曹丕(文帝)が魏王朝を開く。杜畿は朝廷に入り、尚書に任じられる。
・司隷校尉を代行し、首都圏をまとめる。
・曹丕が呉を征伐した際、尚書僕射(しょうしょぼくや)に任じられる。(僕射とは次官。)曹丕が留守の間、朝廷の政務を取り仕切る。
・曹丕が許昌に行幸した際、再び留守を預かる。
・詔勅を受け、帝の船を建造し、試運転をする。大風により転覆し、死亡する。曹丕は涙を流す。
・子の杜恕(とじょ)が跡を継ぎ、やはり名声を博する。孫の杜預は晋の重鎮となり、呉を討ち滅ぼす。
・陳寿は杜畿を評して言う。「寛大と厳格がよく調和し、恩恵をもって人民を安んじた。」