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シバシ シゲン
司馬師 子元
  
~冷徹、賢明な権臣~

 魏の政治家、軍人。国政に努める一方、呉・蜀の侵攻に上手く対処する。帝(曹芳)が司馬氏に刃向うと、廃立を強行する。毌丘倹(かんきゅうけん)が反乱した際、正確に情勢判断し、平定に成功する。



実権掌握
・司馬懿の長子。風貌は優雅。沈着、剛毅で大略を備える。
中護軍に任じられ、首都の軍を司る。

・無頼の者三千人を、秘かに養成する。(当時は政争が活発で、朝廷での立場は安定しない。そこで、私的に味方を作っておいたのだろう。)
・やがて、司馬懿が曹爽打倒に取り掛かり、司馬師はこの三千人に集合をかける。彼等は都中から続々集まり、周りの者を驚かせる。司馬師はその後、要所を素早く占拠する。

・司馬懿死後、撫軍大将軍、録尚書事となり、実権を掌握。(録尚書事は、帝の秘書機関を統括。)その後、大将軍に昇進し、侍中(政治顧問)も兼ねる。
・福祉を心がけ、困窮の民を救う。(司馬氏は儒家の名族で、徳治を信条とする。司馬師もこれに則する。)加えて、隠れた人材を掘り起こす。
・あるとき、「先代達が築いた基礎を重んじ、むやみに改革を行うべきでない」という考えを述べる。(堅実な性格。)




部下への態度
・呉で諸葛恪が実権を握る。司馬師は呉征伐を行い、東興(とうこう)に軍を進める。(呉の新体制が固まる前に、攻勢をかける算段。)しかし、諸葛恪の軍備は万全で、魏軍は敗れる。司馬師は、「私が部下の作戦を斥けたのが悪い」と言い、諸将の罪は問わず。そして、弟の司馬昭のみ罰する。(恐らく、軽い降格処分。)

・陳泰が異民族討伐を願い出て、司馬師はこれを許可する。国境地帯の住民は、度重なる遠征を嫌い、反乱を起こす。司馬師は言う。「陳泰の責任ではない。許可したのは私だ。」




軍略・政争
・蜀の姜維、呉の諸葛恪が同時に魏に侵攻。司馬師は、「諸葛恪は最近実権を握ったばかりで、大規模な作戦は展開できない」と言い、姜維の方に大軍を集中させる。(司馬懿を思わせる大局観。)
・やがて、姜維は撤退。諸葛恪も、合肥新城を攻め切れず、やはり撤退する。司馬師は文欽に待ち伏せさせ、呉軍を破る。


・李豊という人物を信任する。しかし、李豊は魏の忠臣として、司馬氏の専横を嫌う。李豊は、司馬師の代わりに、夏侯玄(夏侯尚の子)に実権を取らせることを画策。事が露呈すると、李豊は司馬師を罵倒する。司馬師は大いに怒り、配下の武者に撲殺させる。(司馬師は、司馬懿同様、権謀家の面も強い。敵には容赦がない。)また、夏侯玄の人徳を警戒し、李豊に連座させて殺害する。

・曹芳(時の帝)が司馬氏排斥を試みる。司馬師は、曹芳の品行の欠如を理由に、廃立を強行する。代わりに曹髦(そうぼう)を立てる。




反乱鎮圧
・揚州都督の毌丘倹(かんきゅうけん)が、司馬氏を警戒して反乱する。(毌丘倹は夏侯玄の盟友。)勇将文欽と結託し、淮南の軍を取り込み、項城(寿春の西)に駐屯。司馬師は大軍を統率し、項城に向かう。

・部下達は速戦を望んだが、司馬師は持久策を述べる。「淮南の将兵には、元々反乱する気はない。今は圧力に屈し従っているが、時が経つにつれ不満は積もる。速戦は敵が望むところであって、我が方が取るべき手ではない。」(司馬懿を思わせる深謀。)

・機を見て鄧艾を出撃させ、わざと隙を作って誘わせる。文欽は出撃したが、敵の背後の備えに気付き、進軍を停止する。ほどなく撤退を開始。司馬師はそれを予測し、騎兵を放って追撃させ、これを破る。(このとき、文欽の子文鴦が奮戦。)その後、文欽、文鴦は呉に亡命する。
・毌丘倹も撤退したが、司馬師の伏兵がこれを射殺する。淮南の将兵は帰順。
・病気で目の上に瘤があり、毌丘倹討伐の際に悪化。やがて死去する。


・陳寿「三国志」に伝記はない。司馬昭の伝記は、「晋書」に「景帝紀」という名で存在する。




司馬懿 司馬昭 鄧艾


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