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オウサン チュウギ
王粲 仲宜
  
~飛び抜けた頭脳と文才~

 魏の官僚、学者。当初は劉表に仕える。後に曹操の側近となり、意欲的に政治に関わる。



劉表に仕える
・兗州(えんしゅう)の山陽郡出身。三公の血筋。
・長安に移住し、蔡邕(さいよう)に認められる。蔡邕は、当時代表的な儒学者。
・ある日蔡邕の家を訪問すると、蔡邕は急いで門に向かい、靴は左右逆さのまま。蔡邕の家の賓客達は、どんな大人物が来たのかと、一斉に王粲に注目する。王粲はまだ年少で、体も柔弱だったため、皆これを見て驚く。蔡邕は言う。「この方は特別な才能を持ち、私も及ばない。私の家の書物は、皆彼に与えることにする。」


・司徒府(内政全般に関わる)に招聘される。その後、黄門侍郎(側仕え)に任じられる。しかし長安(当時の首都)の動乱を見て、荊州の劉表の元に行く。王粲は才気が外見に現れず、礼にもこだわらない性質だったため、劉表から軽視される。(劉表は、形にこだわるタイプの儒家。)

・劉表死後、子の劉琮が跡を継ぐ。王粲は曹操への帰順を説き、劉琮はこれに従う。




曹操に仕える
・曹操から、丞相府の掾(えん)に任じられる。(掾とは府の属官で、一つの部局をまとめる。また、丞相は曹操。)

・曹操が漢水の岸で宴を催し、王粲は祝賀を述べる。まず、袁紹、劉表の失敗に言及する。「袁紹は大勢力を誇っていましたが、賢者を用いることができず、優れた人物は勝手に去っていきました。劉表は南方にあって、時代の推移を観望する算段でしたが、部下を見定めることができず、肝心の補佐がいませんでした。」続いて、曹操の人事を称賛。「ご主君は新しい地を手に入れる度、その地の人材を、差別なく起用されます。結果、天下の人々は心を寄せ、進んで統治を受け入れました。」
軍謀祭酒に任じられる。(祭酒は筆頭の意。)

・曹操が魏国(漢王朝の藩国)を建国する。王粲は、侍中(政治顧問)に任じられる。
・博学多識で、質問に答えられないことはなし。曹操が物見に出る際も、しばしば同じ車に乗せて貰う。
・朝廷の儀礼の改定が行われる際、常に王粲が主導する。

・あるとき、杜襲(侍中)が曹操に目通りし、夜半まで二人で話す。王粲は同僚に対する競争心が強く、遠くから対話の様子を見ながら、立ったり座ったり落ち着かない。同僚(侍中)の和洽(かこう)に対し、「何を話しているのだろう」と言い、和洽に揶揄されたという。




諸々
・あるとき石碑の文を読み、即座に暗誦してみせる。また、碁の対局を観戦中、盤上の石が散らばると、全て元通りに復元する。更に、計算に長け、算法を作り出し、道理を極める。また、弁論にも長けていたという。

・文章を作ることに優れ、筆を取ればたちまち書き上げ、手直しすることはなし。人々は皆、「予め考えておいた文章を書いたのだ」と思い込む。一方で、日々精魂を込めて思慮を巡らし、最大限に努力していたという。(根っから、頭を使うことが好きだったのだろう。)
・しばしば、上奏文や議論文を書く。鍾繇(しょうよう)や王朗ですら、出る幕がなかったという。(いずれも朝廷の名臣で、優れた知識人。)
・六十編に近い詩、賦、論、議(意見)を著す。史書「英雄記」の著述にも携わる。


・曹操が呉に進軍し(二度目の儒須戦)、王粲はこれに随行する。その途中で病死する。
・常々、驢馬の鳴き声を好んだという。葬儀の際、曹丕の提案により、皆驢馬の鳴き真似をして送り出す。

陳寿は王粲、徐幹、陳琳ら12人をまとめて評する。「文帝(曹丕)、陳王(曹植)は公子の尊貴さをもって、広く文学を愛好し、その元には同好の士が集まり、文才ある人物が並んで出現した。」
・更に、王粲を評して言う。「その中でも側近の地位にあり、魏一代の制度を作った。しかし純粋さでは、徐幹に及ばない。」




蔡邕 陳琳


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