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シバイ チュウタツ
魏の参謀、政治家、軍人。最初曹操に招聘され、次第に重鎮となる。曹叡の時代、諸葛亮の北伐を阻止する。曹叡が死去してのち、政敵の曹爽を排し、独自の権力を確立する。
・若年期から博学で知られ、物事の筋道に通じる。やがて郡の役人となる。
・曹操に招聘される。(時期は、官渡の戦いの翌年。)司馬懿は、病を理由にこれを断る。(名族出の司馬懿は、曹氏(新興)に仕えるのを好まず。)
・曹操が丞相になると、再び招聘される。今度は断れず、文学掾(文書管理官)となる。後に、司馬(軍のまとめ役)に任じられる。
・曹操の子曹丕(そうひ)の後見役となる。曹丕から計略能力を買われ、信任を受けたという。
・曹丕の時代、孟達(蜀の将軍)が魏に降る。孟達は立ち振舞いに長けていたが、司馬懿は「うわべだけである」と判断。かくて、「孟達は信頼できません」と説く。(司馬懿は性格的にも、孟達と合わなかったと思われる。)しかし、曹丕は孟達を気に入り、新城太守とする。
・曹丕の死後、子の曹叡が跡を継ぐ。呉軍がその隙を狙い、襄陽県(荊州)に侵攻する。司馬懿は張覇(呉の将)を迎撃し、これを討ち取る。(一方、曹休が呉の別働隊を撃退。)
・上庸県(新城郡の首都)で、孟達が反乱を企てる。司馬懿はそれを察知したが、孟達に友好的な手紙を送り、油断させる。(司馬懿は諸葛亮に比べ、策略家の面が強い。)そのあと、独断で上庸城を急襲し、孟達を殺害する。
・その後、諸葛亮の本軍と対峙する。持久戦を決め込んだが、部下達が出撃を主張する。そこで、張郃を何平(王平)の陣営に向かわせ、自身は諸葛亮の本営に当たる。しかし、いずれも撃退される。(大局的には、大きな不利は生じず。)
・諸葛亮は兵糧が尽き、撤退する。
・諸葛亮が、斜谷道(やこくどう)より進軍する。(第五次北伐。)このとき、司馬懿の軍は、渭水(いすい)の北に駐屯。部下達は、「このまま川を挟んで対峙すべき」と主張する。しかし司馬懿は、「南岸は豊かな地であり、そこをまず占拠すべき」と述べる。かくて、渭水を南に渡河し、河を背にして駐屯。
・諸葛亮の攻撃を防ぎ通す。やがて、諸葛亮は病死し、蜀軍は撤退する。翌年、司馬懿は、太尉(防衛大臣)に任じられる。
・敵将の卑衍(ひえん)、楊祚(ようそ)が、遼水東岸に軍営を連ねる。司馬懿は巧みに陽動行動を取り、そのあと襄平に急行する。卑衍らは軍営を出て、襄平の救援に向かう。司馬懿はこれを待ち受け、大敗させる。(この軍略の凄みは、諸葛亮以上かも知れない。)
・やがて、襄平城に到着。持久戦を決め、理由をこう述べる。「急戦を仕掛ければ、敵は撤退し、遠くまで逃げ散ってしまう。」(襄平の先は、魏の統制が十分及んでおらず、軍糧の補給が困難。)
・公孫淵は劣勢になり、包囲の突破を試みる。司馬懿はこれを破り、殺害する。続いて城を制圧し、多くの遼東人を殺戮する。一方、公孫淵に幽閉されていた公孫恭(淵の叔父)を解放。
・都では、曹叡が病身になる。司馬懿は帰還後、面会に行く。曹叡の頼みを受け、曹爽(皇族)と共に曹芳(太子)を補佐することになる。
・曹叡死後、曹芳が即位する。司馬懿は、太傅(帝の補佐役)に任じられる。(太尉から転任。)
・鄧艾の案に従い、農地政策を実行。許昌周辺の屯田地を減らし、南方の屯田地を充実させる。結果、呉との国境地帯は、備蓄が万全になる。(なお、鄧艾は後には、蜀軍(姜維が率いる)の北伐を防ぐ。つまり、司馬懿の後継者の立場となる。)
・曹芳の時代、呉の朱然が樊(はん)城を囲む。また、呉の諸葛瑾、歩隲(ほしつ)が柤中(そちゅう)に侵攻する。司馬懿は、国境地帯の情勢を説く。「柤中の民十万は、川(漢水)の南側におり、安住の場所がなく、指導者もいません。一方、樊城(漢水北岸)も包囲が厳しく、解ける気配がありません。事態は、危急を告げています。」
・それに対し、他の諸臣は言う。「樊城を包囲している敵は、いずれ疲れて退くでしょう。」司馬懿は、彼等に言う。「国境地帯の人々は、心を乱している。放置すれば、事態は悪化するのみ。」その後、樊城救援に向かう。
・魏軍は皆、南の風土に慣れない。司馬懿は到着後、持久戦を避け、軽装の騎兵を出して挑発させる。しかし、敵将朱然は乗ってこない。そこで、積極的に攻める構えを見せる。精兵を選び出し、先駆けの者を募り、しきりに号令を出す。朱然は、ほどなく撤退。司馬懿は、これを追撃して破る。(一方、柤中の呉軍も、その後撤退。漢水の南北に平穏が戻る。)
・あるとき、曹爽は腹心の李勝を遣わし、司馬懿の様子を窺わせる。司馬懿は耄碌した振りをし、油断させる。やがて、クーデターを起こし、曹爽を殺害する。以後、実権を掌握し、政治を主導する。(名士層(儒家の名士ら)がこれを支持。)
・魏の重臣王凌が、司馬懿の専横を憂慮。王凌は、時の帝曹芳(司馬懿が後見した)の廃立、曹彪(そうひょう)の擁立を企てる。司馬懿はこれを知ると、寛大な処置を取ると見せかけ、一方で秘かに軍を動かす。その後、王凌、続いて曹彪を自殺させる。(敵対者に容赦はない。)
・魏には、「九品官人法」という人事制度あり。郡ごとに「中正官」という人事官が置かれ、地元の人材抽出を担当。しかし次第に、特定の家系との癒着が生じる。司馬懿はそこで、「中正官」の上に、「州大中正」を設置する。(州ごとに人事官を設置。)これにより、中央集権を強化し、地方情勢の乱れを制御。(しかし次第に、中央と繋がりの強い家系が伸長し、貴族化していく。司馬懿はこの状況を、どこまで想定していたか不明。)
・陳寿「三国志」に伝記はない。司馬懿の伝記は、「晋書」に「宣帝紀」という名で存在する。
司馬師 司馬昭 諸葛亮
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シバイ チュウタツ
司馬懿 仲達
~厳格で有能な大臣~
魏の参謀、政治家、軍人。最初曹操に招聘され、次第に重鎮となる。曹叡の時代、諸葛亮の北伐を阻止する。曹叡が死去してのち、政敵の曹爽を排し、独自の権力を確立する。
初期
・司隷の河内郡出身。家系は儒家の名族。・若年期から博学で知られ、物事の筋道に通じる。やがて郡の役人となる。
・曹操に招聘される。(時期は、官渡の戦いの翌年。)司馬懿は、病を理由にこれを断る。(名族出の司馬懿は、曹氏(新興)に仕えるのを好まず。)
・曹操が丞相になると、再び招聘される。今度は断れず、文学掾(文書管理官)となる。後に、司馬(軍のまとめ役)に任じられる。
・曹操の子曹丕(そうひ)の後見役となる。曹丕から計略能力を買われ、信任を受けたという。
対関羽・対孟達
・荊州で関羽が勢威を持ち、曹操は遷都を考える。司馬懿は蒋済共々、これを制止。「呉の孫権と結ぶべき」と説く。曹操はこれに従い、関羽はやがて敗れる。・曹丕の時代、孟達(蜀の将軍)が魏に降る。孟達は立ち振舞いに長けていたが、司馬懿は「うわべだけである」と判断。かくて、「孟達は信頼できません」と説く。(司馬懿は性格的にも、孟達と合わなかったと思われる。)しかし、曹丕は孟達を気に入り、新城太守とする。
・曹丕の死後、子の曹叡が跡を継ぐ。呉軍がその隙を狙い、襄陽県(荊州)に侵攻する。司馬懿は張覇(呉の将)を迎撃し、これを討ち取る。(一方、曹休が呉の別働隊を撃退。)
・上庸県(新城郡の首都)で、孟達が反乱を企てる。司馬懿はそれを察知したが、孟達に友好的な手紙を送り、油断させる。(司馬懿は諸葛亮に比べ、策略家の面が強い。)そのあと、独断で上庸城を急襲し、孟達を殺害する。
諸葛亮と攻防
・諸葛亮が祁山(きざん)に進軍する(第四次北伐)。司馬懿は郭淮に上邽(じょうけい)を守らせ、自身は、張郃(ちょうこう)と共に祁山に行く。途中で、張郃が軍を分けることを進言したが、司馬懿は却下する。「軍を割いた結果本軍が敗れたら、全軍が総崩れになる。」(張郃は歴戦の名将。どちらの作戦が正しいというより、流儀の違いだと思われる。)・その後、諸葛亮の本軍と対峙する。持久戦を決め込んだが、部下達が出撃を主張する。そこで、張郃を何平(王平)の陣営に向かわせ、自身は諸葛亮の本営に当たる。しかし、いずれも撃退される。(大局的には、大きな不利は生じず。)
・諸葛亮は兵糧が尽き、撤退する。
・諸葛亮が、斜谷道(やこくどう)より進軍する。(第五次北伐。)このとき、司馬懿の軍は、渭水(いすい)の北に駐屯。部下達は、「このまま川を挟んで対峙すべき」と主張する。しかし司馬懿は、「南岸は豊かな地であり、そこをまず占拠すべき」と述べる。かくて、渭水を南に渡河し、河を背にして駐屯。
・諸葛亮の攻撃を防ぎ通す。やがて、諸葛亮は病死し、蜀軍は撤退する。翌年、司馬懿は、太尉(防衛大臣)に任じられる。
公孫淵征伐
・遼東太守の公孫淵が反乱する。(遼東郡は東の辺境。首都は襄平県。)司馬懿は、曹叡から大軍を任され、遼東に進軍する。・敵将の卑衍(ひえん)、楊祚(ようそ)が、遼水東岸に軍営を連ねる。司馬懿は巧みに陽動行動を取り、そのあと襄平に急行する。卑衍らは軍営を出て、襄平の救援に向かう。司馬懿はこれを待ち受け、大敗させる。(この軍略の凄みは、諸葛亮以上かも知れない。)
・やがて、襄平城に到着。持久戦を決め、理由をこう述べる。「急戦を仕掛ければ、敵は撤退し、遠くまで逃げ散ってしまう。」(襄平の先は、魏の統制が十分及んでおらず、軍糧の補給が困難。)
・公孫淵は劣勢になり、包囲の突破を試みる。司馬懿はこれを破り、殺害する。続いて城を制圧し、多くの遼東人を殺戮する。一方、公孫淵に幽閉されていた公孫恭(淵の叔父)を解放。
・都では、曹叡が病身になる。司馬懿は帰還後、面会に行く。曹叡の頼みを受け、曹爽(皇族)と共に曹芳(太子)を補佐することになる。
・曹叡死後、曹芳が即位する。司馬懿は、太傅(帝の補佐役)に任じられる。(太尉から転任。)
農地政策・樊城救出
・以前、汝南郡の農政官の鄧艾(とうがい)が、使者として都に来訪。司馬懿は、鄧艾の才を見抜き、掾(えん)に任じる。(当時の司馬懿は太尉(防衛大臣)。掾とは府の属官。)・鄧艾の案に従い、農地政策を実行。許昌周辺の屯田地を減らし、南方の屯田地を充実させる。結果、呉との国境地帯は、備蓄が万全になる。(なお、鄧艾は後には、蜀軍(姜維が率いる)の北伐を防ぐ。つまり、司馬懿の後継者の立場となる。)
・曹芳の時代、呉の朱然が樊(はん)城を囲む。また、呉の諸葛瑾、歩隲(ほしつ)が柤中(そちゅう)に侵攻する。司馬懿は、国境地帯の情勢を説く。「柤中の民十万は、川(漢水)の南側におり、安住の場所がなく、指導者もいません。一方、樊城(漢水北岸)も包囲が厳しく、解ける気配がありません。事態は、危急を告げています。」
・それに対し、他の諸臣は言う。「樊城を包囲している敵は、いずれ疲れて退くでしょう。」司馬懿は、彼等に言う。「国境地帯の人々は、心を乱している。放置すれば、事態は悪化するのみ。」その後、樊城救援に向かう。
・魏軍は皆、南の風土に慣れない。司馬懿は到着後、持久戦を避け、軽装の騎兵を出して挑発させる。しかし、敵将朱然は乗ってこない。そこで、積極的に攻める構えを見せる。精兵を選び出し、先駆けの者を募り、しきりに号令を出す。朱然は、ほどなく撤退。司馬懿は、これを追撃して破る。(一方、柤中の呉軍も、その後撤退。漢水の南北に平穏が戻る。)
権力確立・制度改革
・朝廷では、皇族の曹爽が専横し、次第に司馬懿を軽視する。(朝政は乱れたという。)司馬懿は、政争は得手ではなかったため、しばらく鳴りをひそめる。・あるとき、曹爽は腹心の李勝を遣わし、司馬懿の様子を窺わせる。司馬懿は耄碌した振りをし、油断させる。やがて、クーデターを起こし、曹爽を殺害する。以後、実権を掌握し、政治を主導する。(名士層(儒家の名士ら)がこれを支持。)
・魏の重臣王凌が、司馬懿の専横を憂慮。王凌は、時の帝曹芳(司馬懿が後見した)の廃立、曹彪(そうひょう)の擁立を企てる。司馬懿はこれを知ると、寛大な処置を取ると見せかけ、一方で秘かに軍を動かす。その後、王凌、続いて曹彪を自殺させる。(敵対者に容赦はない。)
・魏には、「九品官人法」という人事制度あり。郡ごとに「中正官」という人事官が置かれ、地元の人材抽出を担当。しかし次第に、特定の家系との癒着が生じる。司馬懿はそこで、「中正官」の上に、「州大中正」を設置する。(州ごとに人事官を設置。)これにより、中央集権を強化し、地方情勢の乱れを制御。(しかし次第に、中央と繋がりの強い家系が伸長し、貴族化していく。司馬懿はこの状況を、どこまで想定していたか不明。)
・陳寿「三国志」に伝記はない。司馬懿の伝記は、「晋書」に「宣帝紀」という名で存在する。