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ソウエイ ゲンチュウ
魏の皇帝。曹丕の跡を継ぎ、即位する。大きな見識を有し、政治、軍事をしっかり監督する。礼教と福祉を進め、更に一族の諸王との関係を改め、一方で諸葛亮の北伐に対処する。しかし、後年は宮殿の造営に没頭し、民を疲弊させる。
・幼少の頃より、曹操に気に入られる。曹操は常々、その優秀さを認め、「国は曹叡の代で盤石になる」と予測する。曹操は、宴に必ず曹叡を出席させ、帷幕の会議にも参加させる。
・曹丕が曹操の跡を継ぎ、ほどなく魏王朝を開く。あるとき甄(しん)氏(曹叡の母)と仲違いし、自殺させる。曹叡もしばらく遠ざけられ、(長子でありながら、)なかなか太子に立てられず。
・曹丕の跡を継ぎ、即位する。(明帝。)
・孫権が江夏郡に進軍したが、太守の文聘に苦戦する。曹叡は言う。「孫権は得意の水戦を棄て、あえて上陸した。一気に片を付ける気だったのだ。これに失敗した以上、長居せず退くだろう。」
・援軍は送らず、代わりに荀禹(じゅんう)を派遣し、国境地帯を慰撫させる。荀禹は更に、兵を集めて山に登り、のろしを上げる。孫権はすぐに撤退。
・天下の男子全てに、二等級の爵位を与える。(いわゆる「民爵」で、曹丕も行った。目的は、国への帰属意識を上げること。)
・配偶者を失った男女、子のいない老人、及び孤児に米を施す。(曹丕同様、福祉に尽力。)
・その頃、都ではデマが流れる。「明帝は既に死去し、随行していた群臣が雍丘王(曹植)を帝に立てた。」曹叡帰還後、太后が「デマ元を調べたい」と述べる。曹叡はこう言う。「世間の者たちは、(そんなデマは)知らないと言っている。調べることなどできまい。」かくて、事を荒立てず。
・法にも力を入れる。常々、「裁判は天下の生命である」と述懐。大きな裁判があると、必ず行幸して参加する。
・詔勅を出し、再び儒教重視を強調。「質と文は、時代によって変化する。(質とは物事の性質、文とは文化。つまり、価値観は不変ではないということ。)現代では、いつの間にか経学は廃れ、若者は行動の際、古典を拠り所にしなくなった。(悪い方向に変わってしまった。)そこで、各種経学に精通する者、民を導くことに長けた者がいれば、博士(官職名)が試験して選び出し、直ちに起用せよ。表面だけ華美で、道理に通じていない者は、全て罷免することとする。」
・ある者が言う。「敵は勝手に兵糧が尽き、撤退するでしょうから、援軍は必要ありません。」別の者は言う。「上邽(じょうけい)一帯の麦を刈り取れば、敵は兵糧の補給ができません。」曹叡はいずれにも従わず、援軍を派遣し、行く先々で麦を確保させる。司馬懿はこの麦を拠り所とし、防備態勢を固め、蜀軍は先に兵糧が尽きる。(聡明な君主が、国内一の名将をバックアップ。隙がない。)
・後にまた、詔勅を出し、藩国の規模を規定。「皇族は国にとって城である」と述べつつ、「けじめは大事」とし、「一郡をもって一国とする」と決める。
・鮮卑族の軻比能(かひのう)は、魏と敵対中。あるとき、歩度根(鮮卑族)に誘いをかける。その情報が魏に入ると、并州刺史の畢軌(ひつき)が、軻比能討伐を願い出る。曹叡はこの上奏が届くと、こう言う。「歩度根はまだ、心を決めかねている筈。もし魏軍が行動を起こしたら、自身も討伐対象になることを案じ、直ちに連合してしまう。」
・その後詔勅を出し、討伐を制止する。しかし間に合わず、歩度根は魏に反逆。曹叡は大軍を派遣し、反乱を鎮圧させる。
・当時、劉協(漢の最後の帝)が、「山陽公」として魏で生活。(諸侯の一人という扱い。)やがて死去し、官吏は「諸侯の礼で葬儀します」と上奏する。しかし、曹叡は漢の帝として葬儀し、漢孝献皇帝とおくり名とする。(劉協は以後、献帝という名で言及される。)
・同時期、孫権が進軍を開始する。満寵(寿春城に駐屯)は、合肥新城の軍を撤退させ、敵を誘い込むことを考える。曹叡はそれを聞くと、こう詔勅。「戦争では、必ず争わなければならない地があり、合肥新城の一帯はこれに当たる。堅く守備すべし。私自ら救援に赴く。到着する頃には、敵は撤退しているであろう。」かくて、合肥新城へ向かう。
・その後、満寵は合肥新城を堅守する。やがて、曹叡の到着が迫ると、呉軍は全て撤退。曹叡の計画通りとなる。(満寵は魏屈指の知将だったが、曹叡はその満寵に代案を出し、成功させた。)
・配下の者が言う。「このまま長安に行幸し、諸葛亮を牽制なさるのがよいです。」曹叡は言う。「司馬懿に任せておけば、何の心配もない。」やがて、諸葛亮は病没し、蜀軍は撤退。
・続いて、こう述べる。「私は先頃、死刑の条項を減らしたのだが、いまだ刑死する者は後を断たない。改めて告げる。恩情を乞う者や、まだ十分弁明をしていない者を裁くのは、道理を徹底し情を尽くすことに反する。廷尉(朝廷の法務官)、全国の獄官に命じる。死罪に当たる罪に関しては、慎重に裁判してから判決を下せ。謀反の首謀者、殺人の直接の下手人以外は、まず両親に連絡して彼等に処置させよ。また、恩情を乞う者があれば、情状の文書と共に判決の上奏をせよ。」
・公孫淵(遼東の太守)が反乱。曹叡は、司馬懿に征伐を命じる。また、領土の各地から、四万の軍を集めようとする。朝臣たちは「戦費がかかり過ぎます」と述べたが、曹叡は言う。「これは遠征であるから、奇策を用いるにせよ、まずは軍事力を万全にすべき。戦費を気にしてはならない。」そして、十分な軍と兵糧を用意する。司馬懿は、やがて大勝を得る。
・蜀の廖惇(廖化)が山上に布陣。魏の郭淮は二つの軍を出し、東西からの攻撃を試みる。曹叡はそれを聞くと、「軍は分離を避けるものだ」と言い、詔勅を出して郭淮を制止。しかし間に合わず、魏軍は敗れる。(郭淮は知将。曹叡の洞察は、その上を行っていた。)
・即位前は政治に関心を持たず、ひたすら書物に没頭する。即位後は大臣を礼遇し、良臣を選別し、軽佻浮薄、讒言(ざんげん)を断ち切る。
・直言をよく聞き、気分を害しても、その部下を殺害することはなし。
・軍を動かす際、何らかの重大事を決める際、しばしば自ら計略を立て、謀臣、将軍、大臣皆が心服したという。(実際、具体的な話が多く残っている。)
・皇居に仕える諸官の名簿を見て、それぞれの特質、過去の善行、家族関係を全て記憶する。また、身分の低い官吏、人民からの上書を受け入れることとし、一月に何千も封書が届く。その文章が拙くても、嫌がることなく、最後まで目を通したという。
・諸葛誕、夏侯玄らが都で名声を集める。(彼等は、貴族出身の朝臣。)互いに盛んに交友し、好んで議論を繰り広げ、人々から持てはやされる。曹叡はこれを、「華やかさを求めているだけ」と判断し、諸葛誕らを罷免する。(思い切った決断。これにより、世の風潮を変える算段。)曹叡は言う。「名声など、絵に描いた餅だ。」
・毛皇后と仲違いし、日々険悪になる。また、従者十数人が自分を裏切り、毛皇后に味方していると疑う。結果、毛皇后と従者達を殺害する。(王沈「魏書」の記事。)
・病身になると、司馬懿と曹爽に後を託す。
・陳寿は曹叡を評して言う。「沈着、剛毅で、決断力、識見を持つ。心意気をもって行動し、人民に対する君主として、優れた気概を有していた。しかし、人々が疲弊し、天下が分裂していたのに、先代の事業を整え、基礎を固めることをしなかった。にわかに、秦の始皇帝や漢の武帝の如く、宮殿の造営に没頭した。将来への考慮という点で、重大な失敗だっただろう。」
曹丕 曹植 司馬懿
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ソウエイ ゲンチュウ
曹叡 元仲
~賢明で物静かな三代目~
魏の皇帝。曹丕の跡を継ぎ、即位する。大きな見識を有し、政治、軍事をしっかり監督する。礼教と福祉を進め、更に一族の諸王との関係を改め、一方で諸葛亮の北伐に対処する。しかし、後年は宮殿の造営に没頭し、民を疲弊させる。
育ち・即位
・曹丕の長子。学問を好み博識。取り分け、法学に興味を持つ。
・幼少の頃より、曹操に気に入られる。曹操は常々、その優秀さを認め、「国は曹叡の代で盤石になる」と予測する。曹操は、宴に必ず曹叡を出席させ、帷幕の会議にも参加させる。
・曹丕が曹操の跡を継ぎ、ほどなく魏王朝を開く。あるとき甄(しん)氏(曹叡の母)と仲違いし、自殺させる。曹叡もしばらく遠ざけられ、(長子でありながら、)なかなか太子に立てられず。
・曹丕の跡を継ぎ、即位する。(明帝。)
・孫権が江夏郡に進軍したが、太守の文聘に苦戦する。曹叡は言う。「孫権は得意の水戦を棄て、あえて上陸した。一気に片を付ける気だったのだ。これに失敗した以上、長居せず退くだろう。」
・援軍は送らず、代わりに荀禹(じゅんう)を派遣し、国境地帯を慰撫させる。荀禹は更に、兵を集めて山に登り、のろしを上げる。孫権はすぐに撤退。
・天下の男子全てに、二等級の爵位を与える。(いわゆる「民爵」で、曹丕も行った。目的は、国への帰属意識を上げること。)
・配偶者を失った男女、子のいない老人、及び孤児に米を施す。(曹丕同様、福祉に尽力。)
対北伐
・蜀の諸葛亮が、北伐を開始する。曹叡は曹真に指令し、これを防がせる。その後、自ら長安まで行軍。指揮下の張郃(ちょうこう)が活躍し、蜀軍は撤退する。
・その頃、都ではデマが流れる。「明帝は既に死去し、随行していた群臣が雍丘王(曹植)を帝に立てた。」曹叡帰還後、太后が「デマ元を調べたい」と述べる。曹叡はこう言う。「世間の者たちは、(そんなデマは)知らないと言っている。調べることなどできまい。」かくて、事を荒立てず。
政治指針
・詔勅を出し、儒教重視の方針を明示する。(魏の時代は後漢に比べ、道家思想が流行。倫理は衰退気味だった。)「博士(官職名)の中から、侍中(政治顧問)、常侍(帝の側仕え)の適材を選ぶように。また、郡国にも通達し、経学(儒学の主要部分)に優れた者を見出すように告げよ。」
・法にも力を入れる。常々、「裁判は天下の生命である」と述懐。大きな裁判があると、必ず行幸して参加する。
・詔勅を出し、再び儒教重視を強調。「質と文は、時代によって変化する。(質とは物事の性質、文とは文化。つまり、価値観は不変ではないということ。)現代では、いつの間にか経学は廃れ、若者は行動の際、古典を拠り所にしなくなった。(悪い方向に変わってしまった。)そこで、各種経学に精通する者、民を導くことに長けた者がいれば、博士(官職名)が試験して選び出し、直ちに起用せよ。表面だけ華美で、道理に通じていない者は、全て罷免することとする。」
対北伐(第四次)
・諸葛亮が北伐(四度目)を行う。曹叡は司馬懿を起用し、これと対峙させる。
・ある者が言う。「敵は勝手に兵糧が尽き、撤退するでしょうから、援軍は必要ありません。」別の者は言う。「上邽(じょうけい)一帯の麦を刈り取れば、敵は兵糧の補給ができません。」曹叡はいずれにも従わず、援軍を派遣し、行く先々で麦を確保させる。司馬懿はこの麦を拠り所とし、防備態勢を固め、蜀軍は先に兵糧が尽きる。(聡明な君主が、国内一の名将をバックアップ。隙がない。)
諸王問題・対異民族
・詔勅を出し、諸王(皇帝の一族)に参内を命じる。(曹丕は諸王を抑制し、冷遇した。)その諸王の一人は曹植。
・後にまた、詔勅を出し、藩国の規模を規定。「皇族は国にとって城である」と述べつつ、「けじめは大事」とし、「一郡をもって一国とする」と決める。
・鮮卑族の軻比能(かひのう)は、魏と敵対中。あるとき、歩度根(鮮卑族)に誘いをかける。その情報が魏に入ると、并州刺史の畢軌(ひつき)が、軻比能討伐を願い出る。曹叡はこの上奏が届くと、こう言う。「歩度根はまだ、心を決めかねている筈。もし魏軍が行動を起こしたら、自身も討伐対象になることを案じ、直ちに連合してしまう。」
・その後詔勅を出し、討伐を制止する。しかし間に合わず、歩度根は魏に反逆。曹叡は大軍を派遣し、反乱を鎮圧させる。
・当時、劉協(漢の最後の帝)が、「山陽公」として魏で生活。(諸侯の一人という扱い。)やがて死去し、官吏は「諸侯の礼で葬儀します」と上奏する。しかし、曹叡は漢の帝として葬儀し、漢孝献皇帝とおくり名とする。(劉協は以後、献帝という名で言及される。)
対北伐(第五次)・対呉
・諸葛亮が北伐(五度目)を行い、司馬懿に防がせる。曹叡は、「堅く守って出撃しないように」と詔勅する。
・同時期、孫権が進軍を開始する。満寵(寿春城に駐屯)は、合肥新城の軍を撤退させ、敵を誘い込むことを考える。曹叡はそれを聞くと、こう詔勅。「戦争では、必ず争わなければならない地があり、合肥新城の一帯はこれに当たる。堅く守備すべし。私自ら救援に赴く。到着する頃には、敵は撤退しているであろう。」かくて、合肥新城へ向かう。
・その後、満寵は合肥新城を堅守する。やがて、曹叡の到着が迫ると、呉軍は全て撤退。曹叡の計画通りとなる。(満寵は魏屈指の知将だったが、曹叡はその満寵に代案を出し、成功させた。)
・配下の者が言う。「このまま長安に行幸し、諸葛亮を牽制なさるのがよいです。」曹叡は言う。「司馬懿に任せておけば、何の心配もない。」やがて、諸葛亮は病没し、蜀軍は撤退。
司法・軍略
・詔勅を出し、司法の改善を試みる。まず、こう述べる。「舜帝の時代は、刑罰を示す衣服を着せるだけで、犯罪を防ぐことができた。周の時代(周の全盛期)には、刑罰は設けられていたが、実際に用いられることはなかった。現代は何故、あの時代とこうも違うのだろう。」(舜帝期、周全盛期は、いずれも伝説の時代。儒家にとって、治世の理想像。)・続いて、こう述べる。「私は先頃、死刑の条項を減らしたのだが、いまだ刑死する者は後を断たない。改めて告げる。恩情を乞う者や、まだ十分弁明をしていない者を裁くのは、道理を徹底し情を尽くすことに反する。廷尉(朝廷の法務官)、全国の獄官に命じる。死罪に当たる罪に関しては、慎重に裁判してから判決を下せ。謀反の首謀者、殺人の直接の下手人以外は、まず両親に連絡して彼等に処置させよ。また、恩情を乞う者があれば、情状の文書と共に判決の上奏をせよ。」
・公孫淵(遼東の太守)が反乱。曹叡は、司馬懿に征伐を命じる。また、領土の各地から、四万の軍を集めようとする。朝臣たちは「戦費がかかり過ぎます」と述べたが、曹叡は言う。「これは遠征であるから、奇策を用いるにせよ、まずは軍事力を万全にすべき。戦費を気にしてはならない。」そして、十分な軍と兵糧を用意する。司馬懿は、やがて大勝を得る。
・蜀の廖惇(廖化)が山上に布陣。魏の郭淮は二つの軍を出し、東西からの攻撃を試みる。曹叡はそれを聞くと、「軍は分離を避けるものだ」と言い、詔勅を出して郭淮を制止。しかし間に合わず、魏軍は敗れる。(郭淮は知将。曹叡の洞察は、その上を行っていた。)
人物像
・優れた容姿を持ち、髪は長く、威厳も備える。どもり気味で、口数が少なかったが、沈着、剛毅にして果断。
・即位前は政治に関心を持たず、ひたすら書物に没頭する。即位後は大臣を礼遇し、良臣を選別し、軽佻浮薄、讒言(ざんげん)を断ち切る。
・直言をよく聞き、気分を害しても、その部下を殺害することはなし。
・軍を動かす際、何らかの重大事を決める際、しばしば自ら計略を立て、謀臣、将軍、大臣皆が心服したという。(実際、具体的な話が多く残っている。)
・皇居に仕える諸官の名簿を見て、それぞれの特質、過去の善行、家族関係を全て記憶する。また、身分の低い官吏、人民からの上書を受け入れることとし、一月に何千も封書が届く。その文章が拙くても、嫌がることなく、最後まで目を通したという。
宮殿造営・朝廷改革
・ある時期から、宮殿の造営を大々的に行う。農民はこれに従事し、耕作に専念できない。次第に、生活も困苦したという。陳羣(ちんぐん)ら多くの家臣が諫めたが、曹叡はなかなか聞かず。(何か独自の思いがあったのだろう。)この頃から狩りの回数も増え、生活が奔放になったという。
・諸葛誕、夏侯玄らが都で名声を集める。(彼等は、貴族出身の朝臣。)互いに盛んに交友し、好んで議論を繰り広げ、人々から持てはやされる。曹叡はこれを、「華やかさを求めているだけ」と判断し、諸葛誕らを罷免する。(思い切った決断。これにより、世の風潮を変える算段。)曹叡は言う。「名声など、絵に描いた餅だ。」
・毛皇后と仲違いし、日々険悪になる。また、従者十数人が自分を裏切り、毛皇后に味方していると疑う。結果、毛皇后と従者達を殺害する。(王沈「魏書」の記事。)
・病身になると、司馬懿と曹爽に後を託す。
・陳寿は曹叡を評して言う。「沈着、剛毅で、決断力、識見を持つ。心意気をもって行動し、人民に対する君主として、優れた気概を有していた。しかし、人々が疲弊し、天下が分裂していたのに、先代の事業を整え、基礎を固めることをしなかった。にわかに、秦の始皇帝や漢の武帝の如く、宮殿の造営に没頭した。将来への考慮という点で、重大な失敗だっただろう。」