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ショカツタン コウキュウ
諸葛誕 公休
  
~魏後期の名臣~

 魏の臣。朝廷で人事に尽力する。毌丘険の討伐に参加し、その後、寿春を取りまとめる。司馬昭に反乱し、長期戦になったが、討死する。



朝臣時代
・徐州の琅邪(ろうや)郡出身。諸葛亮の一族。
・尚書郎に任じられる。(尚書台(秘書機関)の役人。郎は若手の意。)
滎陽(けいよう)県(司隷河南尹)の令に任じられる。

・朝廷に戻り、吏部郎となる。(吏部は人事担当。)人を推挙される度、常に明確な評定を要求し、十分検討した上で決める。また、起用した人物が、何らかの事件に関わった場合、贔屓せず判断を下す。結果、人々は推挙に慎重になる。
御史中丞(監察長官)に任じられる。その後、尚書(秘書機関の実務官)に転じる。
・あるとき、杜畿らと共に船出し、大風により転覆する。救出のための船が来ると、「杜君を先に救ってくれ」と言う。その後、岸まで泳ぎ着く。


・夏侯玄、鄧颺(とうよう)らと交流し、都の人々から人気を得る。
・ある者が曹叡に上奏。「諸葛誕らは、表面的な華やかさを求め、虚名を集めている」と主張する。結果、諸葛誕は罷免される。(曹叡は、地道な努力を重んじる。諸葛誕は、それに反するように見えた。)
・曹叡死後、夏侯玄の力により、諸葛誕は元の官職に復帰。




揚州着任
揚州刺史に任じられる。将軍職も兼ねる。司馬懿が王淩打倒を決めた際、都督揚州諸軍事に任じられる。(その後、司馬懿は王淩を謀殺。戦争は起こらず。)
・司馬師が東興(とうこう)に進軍し、諸葛誕も随行する。諸葛恪(呉の知将)が防備に当たり、魏軍は敗れる。
都督豫(よ)州諸軍事に転じる。

・揚州の寿春県で、毌丘険(かんきゅうけん)、文欽が反乱。諸葛誕を引き込もうとする。諸葛誕は使者を殺害し、司馬師の元で討伐に当たる。司馬師は鎮圧に成功する。
・再び、都督揚州諸軍事となる。寿春城に駐屯。(一方、鄧艾が長江に防衛ラインを敷く。)呉の孫峻が文欽と合流し、寿春に進軍したが、魏軍の態勢を見て撤退する。諸葛誕は将軍の蒋班を遣わし、彼等を撃破させる。


・夏侯玄、鄧颺らは政争に敗れ、司馬氏に殺害される。それ以来、諸葛誕は不安を抱える。そこで、寿春にあって、秘かに基盤を強化。まず、民によく施しをし、その心を引き付けておく。一方、遊侠の徒・数千人を厚遇し、命知らずの子分とする。また、しきりに恩賞を実行。法もゆるやかにし、死罪に当たる者がいても、あえて刑を軽減させる。(諸葛誕は、毌丘険に比べ、政治手腕に長けていた。)




対司馬昭
・司馬昭が、諸葛誕を司空(朝廷の大臣)に任じ、都に召し返す。諸葛誕は警戒し、反乱に踏み切る。自ら兵を率い、揚州刺史・楽綝(がくりん)を襲撃。これを殺害する。(揚州刺史の駐在地は、(諸葛誕のいる)寿春。楽綝は、魏に忠実な武将だっため、諸葛誕にとって邪魔だった。)
・当時、淮南、淮北に屯田地があり、十万人余りの官吏・軍兵が滞在。諸葛誕は、これを全て味方とする。城に一年分の穀物を蓄え、籠城を開始する。更に、孫綝(呉の指導者)が援軍三万を送り、全繹、文欽らがこれを率いる。


・司馬昭が寿春に進軍し、諸葛誕を討伐する。司馬昭は守りを固め、長期戦の構えに入る。呉が諸葛誕に新手の援軍を送ったが、司馬昭に撃退される。
・城内では、次第に食糧が欠乏する。また、全繹は、「孫綝が戦果のなさを怒っている」という虚言を信じ、魏に降る。(魏の参謀鍾会の策。)

・諸葛誕は文欽と旧知だったが、元々仲が悪く、相談中に殺害する。(文欽は粗野、大雑把な性格。基本的に、噛み合わなかったと思われる。)文欽の子の文鴦(ぶんおう)、文虎が魏に下り、厚遇を受ける。これにより、城内の将兵は、魏への敵意が薄れる。
・司馬昭が総攻撃をかけると、投降者が続出。諸葛誕は親衛隊を連れ、脱出を試みたが、胡奮(魏の将)の軍に殺害される。親衛隊数百人も捕らえられ、降伏を呼びかけられる。皆、「諸葛公のために死ねるなら、悔いはない」と拒否する。


・陳寿は諸葛誕をこう評する。「剛毅にして威厳があった。」
・陳寿はまた、王凌、毌丘倹、諸葛誕、鍾会を一まとめにし、「名声と地位がありながら、判断力を狂わせた」と評している。




司馬師 司馬昭 毌丘倹


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