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シバショウ シジョウ
司馬昭 子上
  
~活動的な野心家~

 魏の政治家、軍人。諸葛誕の反乱を鎮める。帝曹髦(そうぼう)が司馬氏討伐を図ると、腹心の賈充に対処を命じ、賈充は曹髦を殺害。後に、蜀王朝を倒し、一方で晋国(魏王朝の藩国)を建てる。その死後、子の司馬炎が晋王朝を開く。



初期
・司馬懿の次子。司馬師の弟。
典農中郎将となる。時の帝曹叡は人民を動員し、しきりに宮殿を増築させる。曹叡が死去してのち、司馬昭は民を農事に専念させ、無闇に労役に駆り出さない。(従来の状態に戻すと同時に、方針を明示した。)これにより民心を得る。

・曹爽が征西を強行し、漢中に進軍。司馬昭は、曹爽に随行する。陣営を堅守し、蜀将王林の夜襲を防ぎ通す。その後曹爽に情勢を述べ、「この戦いは無益」と説く。曹爽は撤退を決定。(以上、あまり知られていない活躍。)




呉征伐・政争
・司馬師が呉征伐に赴く。司馬昭も監軍として、諸軍を統率する。しかし、敵の備えは万全。(呉の主将は、知将の諸葛恪。)魏軍は勝てず、撤退する。
・司馬昭は、部下達に「誰の責任だ?」と問う。王儀(王修の子)が、「司令官である貴方です」と答える。司馬昭は大いに怒り、王儀を誅殺する。

・官僚の李豊が夏侯玄(夏侯尚の子)を担ぎ、司馬師打倒を試みる。司馬師は事前に察知し、李豊を殺害する。更に、夏侯玄の人徳を警戒し、これを殺害する。司馬昭はこのとき、泣いて夏侯玄を弁護したが、聞き入れられず。

・司馬師死後、大将軍、侍中(政治顧問)、録尚書事に任じられる。(録尚書事は、帝の秘書機関を統括。)




反乱鎮圧
・諸葛誕(寿春に駐在)が司馬氏を警戒し、反乱を起こす。(諸葛誕は、夏侯玄の盟友。)司馬昭は大軍を統率し、寿春に向かう。賈充(かじゅう)の進言に従い、持久策を取り、兵を分けて包囲網を作る。
・呉が諸葛誕に援軍を送ったが、司馬昭はこれを撃退する。やがて、諸葛誕は兵糧が尽き、出撃して討死する。


・勝利後、敵の将兵を慰撫し、住民に十分な恩徳を施す。(司馬氏は儒家の名族。司馬昭も、政争に力を入れる一方、徳治を信条としていた。)これをもって、国境地帯は安定したという。




帝の挙兵
・帝の曹髦(そうぼう)が、司馬昭の権力独占を憎み、自ら討伐に赴く。(当時、曹氏の衰退と司馬氏(名族)の台頭は、日々進んでいた。司馬昭の専横は当人の野心だけでなく、時代の趨勢でもあり、曹髦は魏帝としてそれに抵抗。)

・司馬昭は、賈充の軍を遣わし、曹髦を防がせる。賈充は配下の成済に命じ、曹髦を殺害させる。司馬昭はこれを聞き、大いに驚いたという。(事前に知っていて、驚いた振りをした可能性も高い。その場合も、野心のために殺害させたというより、他に保身の手立てがなかったのだろう。)その後、成済に全ての罪を負わせる。
・曹奐(そうかん)を新しい帝とする。




蜀攻略
・腹心の鍾会と共に、蜀攻略の計画を立てる。鍾会、鄧艾、諸葛緒を分遣。
・配下の者が、「鍾会を信用してはいけません」と諫める。司馬昭は、「鍾会が勝利後に反乱しても、蜀の敗残兵は戦意がなく、鍾会の将兵は帰郷したがるから、結局何もできない」と言う。(恐らく、この時点では、鍾会を強く疑っていた訳ではない。可能性として想定。)
・しばらくして、鍾会、鄧艾は蜀を滅ぼす。その後、鍾会は姜維(元蜀将)の言葉に乗り、反乱に踏み切る。以後の展開は、司馬昭の予測通り。

・蜀滅亡の少し前、司馬昭は、晋公となり、晋国(魏王朝の藩国)を建てる。(晋国の下には、河東(司隷)、上党(并州)など十郡。)司馬昭は更に、(魏王朝の)相国(しょうこく)に任じられる。


・賈充に命じ、法を整備させる。賈充は、煩雑さを排し、的確に簡略化していく。(司馬炎の時代、全て完成。)
晋王に昇格する。晋国には、更に十郡が追加。
・司馬昭の死後、子の司馬炎が魏帝(曹奐)から禅譲を受け、晋王朝を開く。(かつて、曹操が魏国の王となり、子の曹丕が魏王朝を開いたのと同じ。)

・陳寿「三国志」に伝記はない。司馬昭の伝記は、「晋書」に「文帝紀」という名で存在する。




司馬懿 司馬師 鍾会 賈充


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