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ショウヨウ ゲンジョウ
鍾繇 元常
  
~才知優れる名官僚~

 魏の官僚、軍人。長安一帯をまとめ、西方の軍閥を手なずける。また、荒廃の洛陽の人口を増やし、復興に力を尽くす。魏国が建国されると、法務を司る。



朝臣時代
・豫州(よしゅう)の潁川(えいせん)郡出身。
・孝廉に推挙される。(孝廉とは、官僚の候補枠。)その後、尚書郎に任じられる。(尚書台(秘書機関)で諸事に当たる。郎とは若手の意。)
・陽陵県(司隷京兆尹)の令に任じられる。病により辞職し、後に廷尉正(法務担当)、黄門侍郎(側仕え)となる。


・曹操が朝廷(長安)に使いを出し、帝に忠義を述べる。当時、李傕(りかく)、郭汜(かくし)が朝廷を支配。李傕らは言う。「関東(函谷関の東)の連中は、独自に帝を立てる気だ。(曹操のこの行動は)本心ではないだろう。」鍾繇はこのとき、李傕らに言う。「各地の有力者の中で、曹操のみが、帝を尊重する態度を取っています。これを拒絶するのは、道理に合いません。」(鍾繇は、潁川出身の名士。情報網と先見の明を有し、曹操に期待をかけていた。)
・李傕らは、これに同意する。曹操は以後、朝廷と連絡が取りやすくなる。


・李傕、郭汜が互いに争い、帝は長安脱出を試みる。鍾繇は、帝のために策謀を巡らす。(詳細不明。)
・帝は洛陽帰還を果たす。鍾繇は、御史中丞(監査官)に任じられる。
・後に、侍中(政治顧問)に任じられる。更に、尚書僕射(しょうしょぼくや)に就任。(恐らく、侍中と兼任。)これは、尚書台(帝の秘書機関)の次官。




西方統括・後方支援
・曹操が洛陽に到来し、帝を奉じる。鍾繇は、曹操の配下に置かれる。
・馬騰、韓遂が関中(函谷関の西)に割拠する。鍾繇は、司隷校尉に任じられ、長安に赴任。馬騰らの慰撫に当たる。(司隷は洛陽、長安を含む州。)馬騰らに書簡を送り、周到に情勢を説明する。傅幹(馬騰の参謀)の進言もあり、馬騰らは曹操に帰順する。


・曹操が官渡で、袁紹(河北の群雄)と対峙する。鍾繇は、馬二千頭を送り、軍に補給する。(優れた軍政能力。)曹操は勝利し、鍾繇の功績を称賛。「古の蕭何(しょうか)に匹敵する」と述べる。(蕭何は劉邦の配下。輸送を担当し、覇業に大きく貢献した。)




高幹を二度撃退
・匈奴の単于(ぜんう)が反乱し、高幹・郭援と連合する。鍾繇は、単于の軍と対峙する。

・やがて、郭援が到着する。鍾繇の部下達は、撤退を勧めたが、鍾繇はこう述べる。「関中には、中立派の諸勢力がいる。彼等が反乱に加わらないのは、我々の威名を気にしているからだ。もし我々が弱みを見せたら、中立の者達は皆、敵側に付いてしまう。撤退は成功しないだろう。」(鍾繇は政務能力だけでなく、情勢の分析に長けていた。)
・更に言う。「郭援は強情であり、敵を軽んじる性格でもある。郭援は恐らく渡河してくるが、(待ち受けて)攻撃をかければ、大勝利を得られるだろう。」(鍾繇は、兵法にも長けていた。)

・その後、馬超(馬騰の子)らを率い、郭援に攻撃をかける。馬超の配下の龐徳(ほうとく)が、自ら郭援を討ち取る。郭援は鍾繇の甥であり、龐徳が首級を出すと、鍾繇は声を上げて泣く。龐徳が謝ると、鍾繇は「郭援は賊だ、何故謝るのか」と述べる。


・しばらくのち、衛固(河東の住民)が反乱し、高幹と結託。杜畿(曹操の参謀)が画策し、彼等を撹乱する。その後、夏侯惇(曹操の将)が大軍を率いて到着。鍾繇は、(夏侯惇と共に)高幹らを討伐し、これを撃破する。




洛陽と関中
・当時洛陽は廃墟。鍾繇は、関中の人々に目を付け、彼等を洛陽に移住させる。また、逃亡者、反乱者を積極的に受け入れ、洛陽に住まわせる。数年の間に戸籍は充実したという。(「三国志演義」には描かれない、大きな活躍。)


・張魯(漢中)を討伐すると称し、西征を開始する。
・漢中は関中に近い。関中の諸軍閥を圧迫し、人質を取る算段。鍾繇自身が献策し、曹操が採用したという。(これは、王沈「魏書」の記事。衛覬(えいき)伝の註に引用。)
・行軍後まもなく、関中の諸軍閥は、馬超・韓遂を盟主として反乱する。(この事態は、曹操と鍾繇にとって、ある程度想定内だったと思われる。関中問題は長年の懸念で、いずれ決着を付ける必要があった。)曹操は、鍾繇が復興させた洛陽を補給地とし、馬超らを破る。




重鎮として活躍
・曹操が魏国(漢王朝の藩国)を建国する。鍾繇は、大理に任じられる。(法務担当。朝廷の延尉に相当。)明察をもって、高い評判を得たという。
魏国の初代相国(しょうこく)に就任。(相国とは首相。)

・陳羣(ちんぐん)が肉刑(体の一部を損傷させる)の復活を主張。理由は、「現在肉刑の代わりに、鞭打ち刑が行われているが、これにより死亡する者が多い。」鍾繇は、陳羣に賛成する。しかし、王朗らが反対し、採用されず。
・魏諷(かつて己が推挙した)の謀反に連座し、免職となる。


・曹丕の時代に復帰。再び魏国の大理となる。曹丕が魏王朝を開くと、廷尉に任じられる。
太尉(防衛大臣)に任じられる。司徒華歆(かきん)、司空王朗と共に三公となる。曹丕は言う。「この3人に優る三公は、今後出ないであろう。」(なお、この三者を比べると、鍾繇は現実主義の策謀家。あとの二人は正統派の儒者で、仁政を第一とする。)
・曹叡の時代、太傅(三公の上で、太子の後見役)に任じられる。


・書家としても有名であり、現代にも伝わっている。
・工芸品を好み、収集する。曹丕(太子時代)がその一つを欲し、曹植(曹丕の弟)を通して伝える。鍾繇は直ちに、曹丕に納品。

陳寿は鍾繇を評して言う。「道理に通じ、司法の才があった。」また、華歆、王朗とまとめて、「一時代の俊傑であった」と称賛。




陳羣 華歆 王朗


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