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リョタイ テイコウ
呉の官僚、軍人。孫権に仕え、荊州争奪戦(対関羽)に尽力。やがて、交州刺史となり(歩隲の後任)、領内を全て平定する。その後荊州に移り、反乱鎮圧で活躍する。
・孫権の元に出向き、呉県の丞(次官)に任じられる。
・孫権は定期的に、諸県の高官を集め、財政、司法について報告させる。呂岱はその際、孫権に気に入られ、録事官(書記官)に任じられる。
・余姚(よよう)県の長となる。(余姚は会稽郡の県。)
・会稽の五県で反乱が起こる。(中心地は東治(とうや)県。他の四県は不詳。)呂岱は督軍校尉となり、蒋欽と共に平定する。
・長沙郡の三県(安成・攸・茶陵)、及び廬陵郡(揚州西部)の永新県で反乱が起きる。(劉備に味方。)彼等は皆、陰山県(桂陽郡北部)の県城に立て籠る。呂岱はこれを包囲し、速やかに降伏させ、混乱は全て鎮まる。
・長沙郡に駐屯する。(首都は益陽県。)あるとき、中郎将の袁龍が、長沙郡の醴陵(れいりょう)県で反乱する。(劉備に味方。)呂岱は討伐に向かい、城を攻め落とし、袁龍を殺害する。
・廬陵郡(揚州)の太守に任じられる。
・不服従民の頭目・銭博(せんはく)が降伏。(威名と信望があったことが窺える。)
・鬱林郡(交州)の異民族が反乱する。呂岱は討伐に向かい、これを平定する。
・桂陽郡(荊州)の王金が南海郡(交州)を荒らす。呂岱は王金を破り、これを捕らえる。将軍位を与えられる。
・士徽は、九真に赴任せず反乱し、呂岱が討伐に当たる。呂岱はまず、部下達に方針を述べる。「秘かに間道を進み、急襲するべき。敵は異民族に人望があるから、もし持久策を取ったら、援軍が雲のように集まってくる。」その後、不意を衝くことに成功し、有利な形勢を得る。士徽は出頭したが、呂岱はこれを誅殺し、残党勢力を撃破する。
・九真で反乱が起こり、呂岱はこれを平定する。その後、広州は廃止。(呂岱は恐らく、交州刺史に復帰。)
・従事(補佐官)を南の諸国に派遣。呉の盤石さを知らせ、国境の向こうの各王が帰順。
・武陵郡(荊州)の異民族が反乱。呂岱は、潘濬(はんしゅん)の元で討伐に当たる。長期戦の末、平定は成功する。
・蒲圻(ほき)県に移る。(蒲圻は、江夏郡南部の県。元は沙羨県の一部。)
・揚州や交州で反乱が起こり、呂岱は討伐に当たる。やがて平定に成功。
・潘濬死後、後任となり、武昌県に駐屯する。(武昌は江夏郡の県。蒲圻の東。)公文書の統括を担当。(政務にも長けている。)なお、武昌には、州牧の陸遜あり。
・廖式が荊州で反乱を起こし、呂岱は討伐に当たる。(途中で交州牧に任じられる。)一年後、平定に成功。(このとき、既に八十歳。)
・陸遜死後、諸葛恪が武昌に赴任する。以後、呂岱は諸葛恪と協力。
・孫亮が即位すると、大司馬に任じられる。
・常に清廉さを貫き、公のために尽くし、日々功績があったという。
・九十六歳で死去し、子の呂凱が跡を継ぐ。(蜀の呂凱とは別人。)
・陳寿は賀斉、全琮、呂岱、周魴、鍾離牧を一まとめにし、こう称賛。「内患である山越問題をよく処理し、国内の安定に力を注いだ。」
・更に、呂岱を評して言う。「純粋な誠意をもって、公のために尽くした。」
賀斉 全琮 歩隲
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リョタイ テイコウ
呂岱 定公
~清廉、果断な地方統治者~
呉の官僚、軍人。孫権に仕え、荊州争奪戦(対関羽)に尽力。やがて、交州刺史となり(歩隲の後任)、領内を全て平定する。その後荊州に移り、反乱鎮圧で活躍する。
初期
・徐州の広陵郡出身。郡や県の役人になる。やがて動乱を避け、江南に移住。
・孫権の元に出向き、呉県の丞(次官)に任じられる。
・孫権は定期的に、諸県の高官を集め、財政、司法について報告させる。呂岱はその際、孫権に気に入られ、録事官(書記官)に任じられる。
・余姚(よよう)県の長となる。(余姚は会稽郡の県。)
・会稽の五県で反乱が起こる。(中心地は東治(とうや)県。他の四県は不詳。)呂岱は督軍校尉となり、蒋欽と共に平定する。
荊州の攻防
・孫権が、荊州を巡って劉備と抗争。(劉備は、関羽に荊州を任せる。)呂岱は諸将を率い、荊州三郡(長沙・零陵・桂陽)を制する。(総指揮官は呂蒙。)・長沙郡の三県(安成・攸・茶陵)、及び廬陵郡(揚州西部)の永新県で反乱が起きる。(劉備に味方。)彼等は皆、陰山県(桂陽郡北部)の県城に立て籠る。呂岱はこれを包囲し、速やかに降伏させ、混乱は全て鎮まる。
・長沙郡に駐屯する。(首都は益陽県。)あるとき、中郎将の袁龍が、長沙郡の醴陵(れいりょう)県で反乱する。(劉備に味方。)呂岱は討伐に向かい、城を攻め落とし、袁龍を殺害する。
・廬陵郡(揚州)の太守に任じられる。
交州時代
・交州の刺史に任じられる。(南方の未開地。物資は豊富。)歩隲(ほしつ)の後任。
・不服従民の頭目・銭博(せんはく)が降伏。(威名と信望があったことが窺える。)
・鬱林郡(交州)の異民族が反乱する。呂岱は討伐に向かい、これを平定する。
・桂陽郡(荊州)の王金が南海郡(交州)を荒らす。呂岱は王金を破り、これを捕らえる。将軍位を与えられる。
交州時代2
・交阯(こうし)郡では、士燮(ししょう)が太守を務める。(州全体に影響力あり。)士燮はやがて死去し、子の士徽(しき)が跡を継ぐ。孫権は士徽を九真郡(南方の狭い郡)の太守に任命。一方、呂岱が上表し、交州の分割を提案する。孫権はこれに従い、西の三郡が新たな交州、東の四郡は広州となる。(交阯と九真は西。)将軍戴良が交州の刺史、呂岱は広州の刺史となる。・士徽は、九真に赴任せず反乱し、呂岱が討伐に当たる。呂岱はまず、部下達に方針を述べる。「秘かに間道を進み、急襲するべき。敵は異民族に人望があるから、もし持久策を取ったら、援軍が雲のように集まってくる。」その後、不意を衝くことに成功し、有利な形勢を得る。士徽は出頭したが、呂岱はこれを誅殺し、残党勢力を撃破する。
・九真で反乱が起こり、呂岱はこれを平定する。その後、広州は廃止。(呂岱は恐らく、交州刺史に復帰。)
・従事(補佐官)を南の諸国に派遣。呉の盤石さを知らせ、国境の向こうの各王が帰順。
荊州時代
・長沙郡(荊州)に赴任する。(郡の首都は臨湘県。呂岱の赴任地は不詳。)
・武陵郡(荊州)の異民族が反乱。呂岱は、潘濬(はんしゅん)の元で討伐に当たる。長期戦の末、平定は成功する。
・蒲圻(ほき)県に移る。(蒲圻は、江夏郡南部の県。元は沙羨県の一部。)
・揚州や交州で反乱が起こり、呂岱は討伐に当たる。やがて平定に成功。
・潘濬死後、後任となり、武昌県に駐屯する。(武昌は江夏郡の県。蒲圻の東。)公文書の統括を担当。(政務にも長けている。)なお、武昌には、州牧の陸遜あり。
・廖式が荊州で反乱を起こし、呂岱は討伐に当たる。(途中で交州牧に任じられる。)一年後、平定に成功。(このとき、既に八十歳。)
・陸遜死後、諸葛恪が武昌に赴任する。以後、呂岱は諸葛恪と協力。
・孫亮が即位すると、大司馬に任じられる。
人格
・かつて交州に赴任した際、家族は残していき、(公を優先して)その生活を省みず。結果、彼等は貧しい日々を送る。孫権は後にそれを知り、毎年、銭、米、反物を贈ったという。
・常に清廉さを貫き、公のために尽くし、日々功績があったという。
・九十六歳で死去し、子の呂凱が跡を継ぐ。(蜀の呂凱とは別人。)
・陳寿は賀斉、全琮、呂岱、周魴、鍾離牧を一まとめにし、こう称賛。「内患である山越問題をよく処理し、国内の安定に力を注いだ。」
・更に、呂岱を評して言う。「純粋な誠意をもって、公のために尽くした。」