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オウロウ ケイコウ
王朗 景興
  
~教養、仁を具備した政治家~

 魏の政治家。最初陶謙に仕え、後に会稽太守として活躍。孫策に敗北後、曹操から招聘を受ける。魏国で法務を司り、曹丕の時代以後は、国政を指導する。



会稽太守となる
・徐州の東海郡出身。経書に詳しく、郎中(宮仕え)に任じられる。後に地方の県長となる。
・孝廉に推挙される。(孝廉とは、官僚の候補枠。)その後、三公(三つの大臣職)の府に招聘されたが、応じず。
・陶謙(徐州牧)により、茂才に推挙される。(茂才とは、官僚の候補枠。)その後、徐州の治中従事(文書担当)に任じられる。
・孔融(青州の名士)と交流があったという。


・陶謙に進言し、朝廷に使者を送ることを勧める。「諸侯に対し優位に立つには、まず勤王の態度を示すことです。帝の命令を受けましょう。」(基本的な考えは、荀彧(曹操の参謀)と同じ。)陶謙はこれに従い、将軍位を授かる。
会稽太守に任じられる。(会稽郡は呉郡と並び、揚州の要地。首都は山陰県。)民に十分恩恵を施し、統治期間は四年に及ぶ。




孫策到来
・あるとき、孫策が会稽に進軍する。(孫策は、江東支配を目論んでいる。)王朗は、配下の虞翻(ぐほん)から避難を勧められたが、「漢の臣として領地を保全すべし」と考える。(「三国志演義」では、孫策が善玉、王朗が悪玉のように描かれる。史実だと、王朗に道義的な非はない。)
・固陵という地に駐屯し、城塞を守備する。しばらくの間、攻撃を凌ぎ、戦況は膠着する。
・孫策は、秘かに査瀆(さとく)に向かい、王朗の拠点を奪取。その後、固陵城も陥落する。

・孫策の元に出頭する。孫策は王朗の教養、徳を尊重し、放免する。
・流浪生活に入る。日々困窮したが、親戚・旧知の面倒をよく見、あくまで道義に沿って行動する。




官職を歴任
曹操から招聘される。(曹操は許県に駐在。許県は当時、後漢の首都で、許都とも呼ばれる。)当時は混乱の時代。すぐには都に行けず、長江や海を行き来し、数年かけて辿り着く。(意思が固まっていなかった、というのもあると思われる。)
・諌議大夫(帝を側で諌める)、参司空軍事(司空府の軍事に参与)に任じられる。(当時の司空は曹操。)
軍祭酒に任じられる。(軍事顧問のトップ。かつて、郭嘉のいた官。)


・曹操が魏国(漢王朝の藩国)を建国し、数郡を支配下に置く。王朗は、魏郡の太守に任じられる。(軍祭酒と兼任。)魏郡は、魏国の中心地。
・少府(財務官)、続いて奉常(儀礼・祭祀を司る)を務める。(奉常は漢の太常と同じ。)
大理に任じられる。(法務担当。朝廷の廷尉に相当。)常々、寛容に司法。複数の刑罰が考えられるとき、一番軽いものを選択する。(情状酌量を重視。)これにより、評判を得たという。




国政を指導
・曹丕が曹操の跡を継ぎ、魏王(魏国の王)となる。王朗は、御史大夫(監察長官)に任じられる。


・上奏し、政治方針を説く。まず民力の大切さを述べ、その後こう提言。「司法を整備し、冤罪者をなくす。」「壮年の民の労役を減らし、農耕に専念させ、土地の生産力を上げる。」「貧民や老人に施しを行い、餓死者をなくす。」「新生児を持つ者の労役を免除し、子をしっかり育てさせる。」

・更に、こう続ける。「医療を重視し、労役は寛容をもって楽しませ、権威と刑罰で強者を抑え、恩恵と仁愛で弱者を救い、貸付をもって貧窮を助けることが大事です。」

・最後に、「このようにすれば、国の将来は安泰です」と締めくくる。(総じて、孟子的な政治理念。長期的国策。)




国政を指導2
・曹丕が魏王朝を開く。王朗は、司空(民政大臣)に任じられる。


・上奏し、節約などを提言。(「節省奏」と呼ばれる。)まず、基本の方針を述べる。「現在、官僚の数は非常に多く、行政事務には無駄があり、儀礼も煩雑です。そこで、節約、簡略を旨とし、改善すべきです。」(具体的な数字も、同時に列挙。ここでは省略。)

・また、軍備の最適化を提言。まずこう述べる。「漢の時代、国軍は数のみで、体制は整っておらず、訓練、編成、輸送いずれも適当で、備蓄も欠けていました。従って、手本にはできません。」
・続いて、こう述べる。「軍政と農事を、結び付けるのがよいです。つまり、軍吏、軍兵に田を与え、平時は農村を形成させ、有事は六軍(りくぐん)に属させます。また、むやみな労役はなくします。日々を満足させれば、彼等は自然と労働に励み、危難にも立ち向かいます。糧食は生活の中で蓄えられ、勇は状況の中で養われ、武威は自ずと輝き、蛮族も容易に侵入しないでしょう。」

・この「節省奏」における諸策は、実行されたとは記されない。しかし、魏の国政に対し、何らかの影響を与えたと思われる。




外交戦略
・蜀の劉備が、呉への遠征を開始する。曹丕はその隙を衝き、蜀を征伐することを考える。王朗は、これに反対する。「呉に利する行動を取るのは、得策ではありません。国境に軍を留め、時機を待つのがよいです。」(なお、劉曄も同じく、蜀征伐に反対。理由は、「蜀を攻撃したら、劉備は呉と和睦してしまう」というもの。)

・病を理由に辞職し、代わりに楊彪(当時光禄大夫)を推薦する。(光禄大夫は、帝の側仕え。)曹丕は、楊彪を昇進させた上で、王朗を復帰させる。(まだ働けると判断。)


・孫権が子(孫登)を人質に出すと言いつつ、なかなか到着しない。曹丕が呉征伐を考えると、王朗は進言する。「この征伐には、確かに正当な理由があります。しかし、(魏の)人々は、それを理解しないでしょう。『人質がちょっと遅れたくらいで、何故討つのか』と思うに違いありません。また、征伐に成功し、そのあと人質が来たら、『そもそも征伐の必要はなかった』と考えるでしょう。」
・続いて、こう言う。「もし征伐をせず、人質がずっと来なかった場合、人々は勿論憤ります。今すべきことは、国境の諸軍に指令し、防備を固めて軍威を示させ、内地では農業を推奨します。そうして、呉を叩ける状況だけ作っておくのです。(これで人々は納得します。)」曹丕はこれに従う。(その後、人質は結局来ず。)




曹叡を補佐
・曹叡が盛んに宮殿造営を行う。結果、民は次第に疲弊。そこで、王朗はこれを諫める。古の例をいくつか示した後、「まだ外敵(呉、蜀)は滅びていません。今は農耕を大事にし、国力を増強すべきです」と説く。
司徒に任じられる。(国政に広く関与。)


・曹叡に子が少ないことを心配し、上奏して言う。「宮女は多ければいい訳ではありません。念入りに選んでください。また、生まれた子の早死を防ぐために、育て方の方針を変えるべきです。常に暖かな布団で包み、過保護に育てるのはよくありません。強い子を育てることが大事です。」(なお、現代でも、「過保護にすると、諸々の免疫を獲得できず、体が弱くなる」と言われている。)




人物像
・高い才能、広い学識あり。「易」、「春秋」、「孝経」、「周礼」の註釈書を著述する。また、多数の上奏文、論議文、記事文を残す。
・性格は厳格で、しばしば義憤を持つ。礼儀を大事にし、謙虚で慎み深く、贈り物もあまり受け取らない。
・当時の世の中には、「恵み深さを標榜しながら、実際は名を売ることに興味がある人々」がおり、王朗は常々彼等を非難する。そして、自分が人々に施しをする際は、実際に差し迫っている者から救う。

・かつて、劉陽(沛国の名士)と親交あり。劉陽は後に、曹操打倒を試みて失敗。やがて死去し、その子息は逃亡する。王朗は当時会稽にいたが、子息を家に置いてやる。曹操に仕えてのち、度々申し開きをし、受け入れられる。


陳寿は王朗を評して言う。「豊かな文才・学識を持っていた。」また、鍾繇(しょうよう)、華歆(かきん)とまとめて、「一時代の俊傑であった」と称賛。




鍾繇 陳羣 華歆


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