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ハンシュン ショウメイ
呉の臣。初め関羽に仕え、後に孫権の配下に入る。政事と軍事、双方で活躍する。
・王粲(おうさん)に評価されたことで名を高め、郡(武陵郡)の功曹(人事に広く関わる)に任じられる。
・劉表が荊州牧となると、潘濬は江夏郡の従事(長官に直属の補佐官)に任じられる。(当時の江夏太守は黄祖。)
・沙夷県(江夏郡の首都)の県長が汚職を行う。潘濬はこれを誅殺し、郡全体が引き締まる。
・湘郷県(零陵郡)の令となり、領民から信望を得る。
・劉備が荊州刺史となると、潘濬は州の治中従事(文書担当)に任じられる。
・劉備が益州に出発し、関羽が荊州を統括。(実質、州の長官。)潘濬は関羽の元で、荊州の事務を取り仕切る。
・関羽は魏、呉と争い、呉軍が関羽を殺害する。荊州の者は皆、孫権の配下に入ったが、潘濬は涙を流して拒む。(関羽への忠義。)孫権が礼を尽くし、「私は新しい主君として不足か」と問うと、潘濬は拝礼。その場で、(荊州の)治中従事に任じられる。
・荊州の軍事について、事あるごとに諮問を受ける。後に、奮威将軍に昇進。
・歩騭(ほしつ)が荊州にあって、兵の増員の許可を求める。潘濬は反対の意を述べる。「部将が地方で勢力を持ちますと、その周辺の地域を自ずと引き寄せ、国の秩序は乱れます。許可してはいけません。」孫権はこれに従う。
・中郎将の徐宗は名声があったが、部下を放任し、悪事を行うのを咎めない。人々にとって、しばしば悩みの種となる。潘濬は徐宗を誅殺する。
・武陵郡の官僚樊伷(はんちゅう)が、五渓の異民族に誘いをかけ、劉備に呼応しようとする。孫権は潘濬に対処を問い、潘濬は「五千の兵で勝てます」と答える。孫権が「少ないのではないか」と言うと、潘濬は答える。「樊伷とは旧知ですが、彼は口が回るだけの小物です。」(潘濬は人物眼も鋭い。)その後、討伐に赴き、樊伷を討ち取る。
・武陵の五渓の異民族が反乱。潘濬は多数の軍団を統率し、討伐に向かう。信賞必罰を徹底させ、万単位の敵を倒す。
・投降者の隠蕃(いんはん)は弁舌さわやかで、都の有力者に気に入られる。潘濬の子の潘翥(はんしょ)も隠蕃と親密になる。潘濬は潘翥に手紙を送って責める。「お前は都において、慎重に身を処し、賢者、立派な人物に心を寄せるべきなのだ。投降者(素性が分からない者)などと付き合ってどうするのか。今後のことが心配でならぬ。」後に隠蕃は謀反し、人々は潘濬の先見の明に感嘆する。
・孫権が、酷吏(法に厳しい官吏)の呂壱を寵愛する。呂壱は絶えず粗探しをし、良臣を次々害する。潘濬は陸遜と語り合い、共に嘆く。
・呂壱はあるとき、丞相の顧雍を投獄する。謝厷(しゃこう)が呂壱に言う。「顧公が免官になりますと、潘濬が代わって丞相になるでしょう。それでもよろしいのですか。」(潘濬は、厳格、果断を旨とする。)呂壱は恐れ、顧雍を放免する。
・あるとき、都に赴く。呂壱の件について、孫権に直訴しようとする。しかし、太子の孫登が諌めても効果がなかったことを知ると、宴席で呂壱を殺害することを決める。(潘濬は、道理を何より重んじる。呂壱の数々の行いは、許容の範囲を大きく超えていた。)呂壱は事前に聞き知り、病と称して欠席する。
・潘濬はその後も、孫権に会う度に、呂壱の悪辣さを述べ立てる。結果、孫権の呂壱への寵愛は次第に薄れ、やがて誅殺する。孫権はまた、詔勅を下し、呂壱重用を諌めなかった諸臣を問責する。
・陳寿は潘濬をこう評する。「私利を求めず、国家のために尽くし、大胆に事を行った。」
陸遜
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ハンシュン ショウメイ
潘濬 承明
~気骨を備えた能吏~
呉の臣。初め関羽に仕え、後に孫権の配下に入る。政事と軍事、双方で活躍する。
荊州時代
・荊州の武陵郡出身。宋忠(高名な儒学者)から学問を学ぶ。聡明で人との応対に長け、言葉は理に沿う。
・王粲(おうさん)に評価されたことで名を高め、郡(武陵郡)の功曹(人事に広く関わる)に任じられる。
・劉表が荊州牧となると、潘濬は江夏郡の従事(長官に直属の補佐官)に任じられる。(当時の江夏太守は黄祖。)
・沙夷県(江夏郡の首都)の県長が汚職を行う。潘濬はこれを誅殺し、郡全体が引き締まる。
・湘郷県(零陵郡)の令となり、領民から信望を得る。
・劉備が荊州刺史となると、潘濬は州の治中従事(文書担当)に任じられる。
・劉備が益州に出発し、関羽が荊州を統括。(実質、州の長官。)潘濬は関羽の元で、荊州の事務を取り仕切る。
・関羽は魏、呉と争い、呉軍が関羽を殺害する。荊州の者は皆、孫権の配下に入ったが、潘濬は涙を流して拒む。(関羽への忠義。)孫権が礼を尽くし、「私は新しい主君として不足か」と問うと、潘濬は拝礼。その場で、(荊州の)治中従事に任じられる。
・荊州の軍事について、事あるごとに諮問を受ける。後に、奮威将軍に昇進。
朝臣として
・孫権が呉王朝を開くと、潘濬は少府に任じられる。(九卿の一つで、内務全般に関わる。)後に、太常に転じる。(同じく九卿の一つで、儀礼、祭祀を司る。)
・歩騭(ほしつ)が荊州にあって、兵の増員の許可を求める。潘濬は反対の意を述べる。「部将が地方で勢力を持ちますと、その周辺の地域を自ずと引き寄せ、国の秩序は乱れます。許可してはいけません。」孫権はこれに従う。
・中郎将の徐宗は名声があったが、部下を放任し、悪事を行うのを咎めない。人々にとって、しばしば悩みの種となる。潘濬は徐宗を誅殺する。
・武陵郡の官僚樊伷(はんちゅう)が、五渓の異民族に誘いをかけ、劉備に呼応しようとする。孫権は潘濬に対処を問い、潘濬は「五千の兵で勝てます」と答える。孫権が「少ないのではないか」と言うと、潘濬は答える。「樊伷とは旧知ですが、彼は口が回るだけの小物です。」(潘濬は人物眼も鋭い。)その後、討伐に赴き、樊伷を討ち取る。
再び荊州
・陸遜共々、荊州の武昌県(江夏郡)に駐屯。地域を取りまとめる。
・武陵の五渓の異民族が反乱。潘濬は多数の軍団を統率し、討伐に向かう。信賞必罰を徹底させ、万単位の敵を倒す。
・投降者の隠蕃(いんはん)は弁舌さわやかで、都の有力者に気に入られる。潘濬の子の潘翥(はんしょ)も隠蕃と親密になる。潘濬は潘翥に手紙を送って責める。「お前は都において、慎重に身を処し、賢者、立派な人物に心を寄せるべきなのだ。投降者(素性が分からない者)などと付き合ってどうするのか。今後のことが心配でならぬ。」後に隠蕃は謀反し、人々は潘濬の先見の明に感嘆する。
・孫権が、酷吏(法に厳しい官吏)の呂壱を寵愛する。呂壱は絶えず粗探しをし、良臣を次々害する。潘濬は陸遜と語り合い、共に嘆く。
・呂壱はあるとき、丞相の顧雍を投獄する。謝厷(しゃこう)が呂壱に言う。「顧公が免官になりますと、潘濬が代わって丞相になるでしょう。それでもよろしいのですか。」(潘濬は、厳格、果断を旨とする。)呂壱は恐れ、顧雍を放免する。
・あるとき、都に赴く。呂壱の件について、孫権に直訴しようとする。しかし、太子の孫登が諌めても効果がなかったことを知ると、宴席で呂壱を殺害することを決める。(潘濬は、道理を何より重んじる。呂壱の数々の行いは、許容の範囲を大きく超えていた。)呂壱は事前に聞き知り、病と称して欠席する。
・潘濬はその後も、孫権に会う度に、呂壱の悪辣さを述べ立てる。結果、孫権の呂壱への寵愛は次第に薄れ、やがて誅殺する。孫権はまた、詔勅を下し、呂壱重用を諌めなかった諸臣を問責する。
・陳寿は潘濬をこう評する。「私利を求めず、国家のために尽くし、大胆に事を行った。」