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カンタク
闞沢
  
~民間出身の大学者~

 呉の文臣。尚書や侍中を務める。また、太子の後見役として尽力。



信任を受ける
・揚州の会稽郡出身。家は代々農家。
・貧しい生活の中、筆写をしてお金を稼ぐ。一冊終える度に、その書を全て暗誦できるようになる。
・学問の師を求めつつ、各地で議論をする。自分の意見を発表し、多くの書に目を通し、暦の計算にも通じる。(魏(中原)に比べ、呉は学閥が強くない。自由に向学心を発揮できたと思われる。)やがて、人々に名を知られるようになる。

・孝廉に推挙され、銭唐県(揚州呉郡)の長に任じられる。(孝廉とは、官僚の候補枠。農家出身者が推挙されるのは、呉でも稀有だったと思われる。)やがて、郴(ちん)県(荊州桂陽郡)の令に転じる。
・孫権が驃騎将軍になった際、闞沢は招聘を受け、西曹掾に任じられる。(西曹は部局名で、府内の人事に関わる。掾は府の属官で、一つの部局をまとめる。)

・孫権が呉王朝を開くと、闞沢は、尚書(秘書機関の実務官)に任じられる。
中書令(書記官)に転じ、侍中(政治顧問)を加官される。また、太子孫和の太傅(後見役)を兼ねる。
・孫和、孫覇(孫和の弟)に教授する際、儒学書の煩雑さを案じる。そこで、諸々の学説を吟味し、簡略化を行う。また、孫和らのために、外出した際の作法を定める。
・「乾象暦注」(暦学の解説本)を著述する。




儒家として
・朝廷の重要な問題や、経書における疑問点に関し、常に意見を求められる。その度に、高い教養を元に、的確な答えを出す。日々の功を認められ、侯に封じられる。

・謙虚、実直な性格。一般の官吏に質問するときも、あえて対等の立場を取る。また、他人に欠点があるとき、直接口に出すことはなし。
・闞沢の見た目は、そう学があるように見えなかったが、見聞の広さは限りなかったという。
・和を尊ぶ性格だったが、決して正道は譲らず。あるとき、役人の不正が横行し、「禁令や監視を強めるべし」という意見が出る。闞沢は、「あくまで礼と律に即するべし」と意見を述べる。(法よりも、儒教に基づく理念・規範。)
・虞翻は、「闞沢は学識と徳行を共に備え、まさに現代の董仲舒(前漢の大学者)である」と述べる。(この虞翻は、名家出身の大学者。気位の高い人物。)


・呂壱という人物が刑法を駆使し、多くの忠臣を害する。呂壱は後に逮捕され、死罪となる。ある者が、残虐な刑罰を提案すると、闞沢は「この輝かしい御代に、そんな刑罰を行ってはいけません」と述べる。
・孫権から、「一番優れた書物は何だろうか」と尋ねられる。闞沢は、国家の治乱の原理を知って貰おうと考え、賈誼(かぎ)の「過秦論」を挙げる。孫権はそれを読む。
・その死後、孫権は悲しみ、数日食事を取らず。
・陳寿は厳畯、程秉、闞沢をまとめて評する。「一代に名のある学者であった。」




虞翻


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